今日は私にとっては、特別の日です。
60歳の誕生日なのです。
誰のことばであったのかは忘れましたが、人間は、二度生まれるのだそうです。
一度目は母親から。二度目は、自分自身から。(この解釈は、私のものですが)
ですから、今日からは言い訳のきかない人生の始まりです。
何しろ、「生みの親が自分自身」なのですから、誰にも文句を言っていく先がなくなるのです。
母への手紙にもそのように書きました。
20歳の時に、「二十歳の記念」にと思い、「マイウェイ」(映画)を観てから、40年がたったのです。
ふり帰ってみると「あっ、という間」のような気がします。
其れでも、いろいろあった40年間でした。
◆
どの時が、「私にとって忘れられないこと」という訳ではありませんが、神戸にいた15年ばかりの間のことは、特別です。
ちょうど私の「青年期」に当たることからもです。
仕事はもちろんの事。
休みの日に、ボーリングや、わざわざ和歌山の海まで行って、魚釣りをしたこと。
5泊6日も、泊りがけで、信州にスキーに行ったこと。
高校生の時には、陸上部に所属していたので、ケガをしたら走れなくなるので、怖くて、スキーはしませんでした。
雪質はそれほどでもないのですが、神鍋スキー場のすぐそばで暮らしていたのです。
が、スキーに行ったのは、学校のスキー教室の時だけです。
本当はこれも、休むべきでした。
帰る間際なって、コケて尻餅をついた所に「石」があり、尾てい骨を思い切り打ちつけることになったのです。1週間ほどは、全く練習が出来ませんでした。2年生の冬のことです。
悪いことは続くもので、ちょとしたことで、「腹を火傷」してしまい、この事でも、練習ができませんでした。
進学は最初からあきらめていたので、その頃は「陸上が命」の毎日でしたから、もう大変でした。
もっとも、そんなに早かったわけでもないのですが。
たぶん小学生時代(1年から4年まで)に、片道30分ほどの距離を毎日歩いて学校にかよったことで、足腰が丈夫になったのだと思います。しかも、帰りは、上り坂でした。
「電信柱から電信柱まで」という感じで、━━早く帰りたい一心━━で、走ったり、歩いたりしたのが、自然とインターバルトレーニングになっていたようです。
もちろん、その頃にそんな、陸上競技の練習方法の専門的知識があったわけではありませんが。
冬は、30センチほど積もった雪道を、同じように歩いて通ったのです。
この事も、プラスになったと思います。
それが転校して、学校まで歩いて5分の距離の所に住むようになったのです。
自然に、体力も落ちてきました。
それでも、中学生の間はまだ「誤魔化し」がきいたのですが、さすがに高校ではそうはいきませんでした。試合に行っても、予選を通過するのがやっとでした。
二次予選でマークされると、駆け引きなど元々する気もない身では、歯が立ちません。
そういう訳で、本格的にスキーをしたのは、この時からです。
この泊まり込みの時の「特訓」で、人並みにすべる事が出来るようになったのです。
もう何年も行ってはいませんが、今でも、ちゃんとスキー板を操作することが出来ると思います。
◆
春には、当然のことのように「花見」でした。(「花見など、という人がいますが、私には、そんな人はとても「日本人」とは、思えません。)
また神戸は、背中に、六甲山の山々が控えています。
「六甲山縦走」と言って、1日がかりで、その山々を、歩きとおす「イベント」がありました。
朝の6時ごろに、須磨を出て、終点の宝塚に着くのが、夜の6時か7時ごろです。
約12時間かけて、歩き通します。
坂道、階段、崖道など、変化に富んだコースを歩くのは、骨が折れることでしたが、陸上で鍛えた体ですから、平気でした。
まして、まだ20代の時のことです。
一番体力のあった時です。
三度とも完走(完歩?)しました。
今いる「友達」は、ほとんどがその頃に知り合いになった人です。
そんな訳で、神戸は、私にとっては、「第二の故郷」という所でもあります。
地震に遭って大変でしたが、今の福島のようなことはなかったので、まだ救いがあります。
その意味では、家内は「戦友」です。
7時間余りの間、苦痛と恐怖に、共に耐えたのですから。
近所では、多くの方が亡くなったのに、奇跡的に助かった、のでした。
これは、家内の持ってきた家具のおかげもあったのです。
ですから、家内も、「妻であり」また、「友人」でもあります。
今後、まだまだ苦難の道は続くのでしょうが、今日が第1歩と考えて、これからの人生を乗り切っていきたい、というのが今の私の心境です。
(追記 プロフィールの写真は、結婚式の時のものです。ついでに書き添えておきます)
(2013-10-22 03:12:06)
60歳の誕生日なのです。
誰のことばであったのかは忘れましたが、人間は、二度生まれるのだそうです。
一度目は母親から。二度目は、自分自身から。(この解釈は、私のものですが)
ですから、今日からは言い訳のきかない人生の始まりです。
何しろ、「生みの親が自分自身」なのですから、誰にも文句を言っていく先がなくなるのです。
母への手紙にもそのように書きました。
20歳の時に、「二十歳の記念」にと思い、「マイウェイ」(映画)を観てから、40年がたったのです。
ふり帰ってみると「あっ、という間」のような気がします。
其れでも、いろいろあった40年間でした。
◆
どの時が、「私にとって忘れられないこと」という訳ではありませんが、神戸にいた15年ばかりの間のことは、特別です。
ちょうど私の「青年期」に当たることからもです。
仕事はもちろんの事。
休みの日に、ボーリングや、わざわざ和歌山の海まで行って、魚釣りをしたこと。
5泊6日も、泊りがけで、信州にスキーに行ったこと。
高校生の時には、陸上部に所属していたので、ケガをしたら走れなくなるので、怖くて、スキーはしませんでした。
雪質はそれほどでもないのですが、神鍋スキー場のすぐそばで暮らしていたのです。
が、スキーに行ったのは、学校のスキー教室の時だけです。
本当はこれも、休むべきでした。
帰る間際なって、コケて尻餅をついた所に「石」があり、尾てい骨を思い切り打ちつけることになったのです。1週間ほどは、全く練習が出来ませんでした。2年生の冬のことです。
悪いことは続くもので、ちょとしたことで、「腹を火傷」してしまい、この事でも、練習ができませんでした。
進学は最初からあきらめていたので、その頃は「陸上が命」の毎日でしたから、もう大変でした。
もっとも、そんなに早かったわけでもないのですが。
たぶん小学生時代(1年から4年まで)に、片道30分ほどの距離を毎日歩いて学校にかよったことで、足腰が丈夫になったのだと思います。しかも、帰りは、上り坂でした。
「電信柱から電信柱まで」という感じで、━━早く帰りたい一心━━で、走ったり、歩いたりしたのが、自然とインターバルトレーニングになっていたようです。
もちろん、その頃にそんな、陸上競技の練習方法の専門的知識があったわけではありませんが。
冬は、30センチほど積もった雪道を、同じように歩いて通ったのです。
この事も、プラスになったと思います。
それが転校して、学校まで歩いて5分の距離の所に住むようになったのです。
自然に、体力も落ちてきました。
それでも、中学生の間はまだ「誤魔化し」がきいたのですが、さすがに高校ではそうはいきませんでした。試合に行っても、予選を通過するのがやっとでした。
二次予選でマークされると、駆け引きなど元々する気もない身では、歯が立ちません。
そういう訳で、本格的にスキーをしたのは、この時からです。
この泊まり込みの時の「特訓」で、人並みにすべる事が出来るようになったのです。
もう何年も行ってはいませんが、今でも、ちゃんとスキー板を操作することが出来ると思います。
◆
春には、当然のことのように「花見」でした。(「花見など、という人がいますが、私には、そんな人はとても「日本人」とは、思えません。)
また神戸は、背中に、六甲山の山々が控えています。
「六甲山縦走」と言って、1日がかりで、その山々を、歩きとおす「イベント」がありました。
朝の6時ごろに、須磨を出て、終点の宝塚に着くのが、夜の6時か7時ごろです。
約12時間かけて、歩き通します。
坂道、階段、崖道など、変化に富んだコースを歩くのは、骨が折れることでしたが、陸上で鍛えた体ですから、平気でした。
まして、まだ20代の時のことです。
一番体力のあった時です。
三度とも完走(完歩?)しました。
今いる「友達」は、ほとんどがその頃に知り合いになった人です。
そんな訳で、神戸は、私にとっては、「第二の故郷」という所でもあります。
地震に遭って大変でしたが、今の福島のようなことはなかったので、まだ救いがあります。
その意味では、家内は「戦友」です。
7時間余りの間、苦痛と恐怖に、共に耐えたのですから。
近所では、多くの方が亡くなったのに、奇跡的に助かった、のでした。
これは、家内の持ってきた家具のおかげもあったのです。
ですから、家内も、「妻であり」また、「友人」でもあります。
今後、まだまだ苦難の道は続くのでしょうが、今日が第1歩と考えて、これからの人生を乗り切っていきたい、というのが今の私の心境です。
(追記 プロフィールの写真は、結婚式の時のものです。ついでに書き添えておきます)
(2013-10-22 03:12:06)