2014年1月5日日曜日

「特定秘密保護法」と、「人間であること」の意味を考える。

今日は、人間の存在する意義について考えてみます。
年末年始は、軽い話題を、と約束しながら申し訳なく思いますが、しばらくの間お付き合いを願います。


人は、寝て起きて食べて、働きます。
そして、これらの事を、一人ではなく、大勢の人と協力して行います。

寝ることは、一見単独ですることのようですが、そうではありません。
寝るには布団やベッドが必要ですが、これらは誰かが作ったものです。

だから、寝るという行為でさえ、社会的である、といえます。

食べることも同様です。
今日、食べ物は、多くの人に手を経た結果として、我々の口の中に入ります。

魚は、漁師さん。
肉は、畜産家。
野菜やお米などは、農家。そしてこれらを売る人など。

その他、加工食品においては、数えきれないほどの工場で生産されています。

働くことも、分業に基づく協業として、行われます。
決して単独で行われるわけではありません。あらためて言うまでもないことです。

でも、実はこれだけの事なら、規模は違えこそすれ、牛や馬でもすることです。
ミツバチなら、人間よりもっと「立派に」にやることでしょう。

蟻はどうでしょう。数えきれないほどのアリたちが、働いているのを見かけることがよくあると思います。

では、これらの動物と人間との違いは何なのでしょうか。

私はそれは、「考える」ということにあると思います。
そして、考えるだけでなく、それを文字にし、話し、他の人に伝える、ということをします。

ここでも、人間らしく、協労という面が見られます。

ですから、人間であるということは、単に「食べて寝て、働く」だけでなく、「物を考える」という行為が必要です。

そうしてこそ初めて「人間である」ということが出来ると思うのです。
現在「働いていない」私が言うのは、僭越ですが、これは真実です。

牛や馬や蟻やハチには決して出来ないことです。
では、チンパンジーなら出来る、という答えがあるかもしれません。

でも私はやはり無理だと思います。
「パン君」には決してできないことです。

学生の頃「森から来た養女」という本を読んだ事があります。
産まれたばかりのチンパンジーにあらゆることを試みさせます。

その結果、この著者は結論で「彼らにどんな立派な教育を施しても、彼らが人間にとって変わったなら、今の文明は、一つまた一つと、次々に消え去っていくであろう」と述べます。

そうです。
人間だけが、文化を持つことが出来るのです。

そして、そのことは、人間がお互いに、自分の頭の中にあることを共有し合うからできる事なのです。

そして、共有する手段が、「文字を使って、書くこと」であり、「言葉を使って話すこと」にほかなりません。

これなくして、お互いの意思の疎通は出来ないのです。

昨年の暮れに、「特定秘密法」が可決成立しました。
手続きに問題はあるようですが、成立したものは、法律です。どうにもできません。

この法律をもって、今の安倍政権が何をしようとしているのかは、良く分りませんが、少なくともまた庶民イジメの道具にしようと考えていることは、間違いのない事でしょう。

ですから、こんな「策動にマケズニ」にガンバル(この言葉はあまり好きな言葉ではないのですが、あえて使います)しかない、と思うのです。

自分の頭で考え、他人と話す、議論をする、ということが増々、必要です。
そのための、手助けのひとつに、このブログがなれば、いいと思います。

そうであれば、この拙い記事でも、読んで頂く価値が生まれることでしょう。