<「ブッダの感興のことば」 第4章 はげみ Ⅲ>です。多く説く事、多く語ること。それよりも、たえと少なく説き、語る人であっても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨て去る事を
したならば、その人は、修業行の部類に入る。そのようにブッダは、説きます。
★
多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践しているのではない。
この世でたとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を体得する人、
怠って道からはずれることの無い人ーーかれこそ道を実践している人である。
(4-21)
たといためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
牛飼いが他人の牛を数えているようなものである。
かれは修行者の部類には入らない。(4-22)
たといためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とをすてたならば、その人は、修業行の部類に入る。(4-23)
(「ブッダの感興のことば」 第4章)
★
為すべき事、為してはならい事、についてといたあと、ブッダは「いかに実践するか」について、上の句のように説いています。
多く説く事、多く語る事、そのことが重要なことではなく、自らが実践することこそが大切な事です。
そして、実践する上においては、「理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを」捨て去ることが、肝要だ、とブッダは言います。
そこで、問題は、「理法とは何か」ということになります。
(2018年10月3日)
したならば、その人は、修業行の部類に入る。そのようにブッダは、説きます。
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多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践しているのではない。
この世でたとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を体得する人、
怠って道からはずれることの無い人ーーかれこそ道を実践している人である。
(4-21)
たといためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
牛飼いが他人の牛を数えているようなものである。
かれは修行者の部類には入らない。(4-22)
たといためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とをすてたならば、その人は、修業行の部類に入る。(4-23)
(「ブッダの感興のことば」 第4章)
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為すべき事、為してはならい事、についてといたあと、ブッダは「いかに実践するか」について、上の句のように説いています。
多く説く事、多く語る事、そのことが重要なことではなく、自らが実践することこそが大切な事です。
そして、実践する上においては、「理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを」捨て去ることが、肝要だ、とブッダは言います。
そこで、問題は、「理法とは何か」ということになります。
(2018年10月3日)
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