2018年10月14日日曜日

「ブッダの感興のことば」第10章 信仰> 信仰心と知慧は最上のもの

「ブッダの感興のことば」 第10章 信仰、です。ブッダは、信仰心と知慧を得ることこそ、最上のことがらである、とこの章において説いています。




信ずる心あり、恥を知り、戒めをたもち、また財をわかち与えるーーこれらの徳行は、尊い人々のほめたたえることがらである。
「この道は崇高なものである」とかれらは説く。

これによって、この人は天の神々の世界におもむく。(10-1)

信は人の最高の財である。
信を良く実行したならば、幸せを受ける。
真実は、実に諸の錠剤の中で最も甘美なものである。

明らかな知慧によって生きる人は、生きている人々うちで最もすぐれた人であると言われる。(10-3)

生きとし生ける者どものあいだにあって、信仰心と知慧を得た賢い人にとっては、それが実に最高の宝である。
そのほかの宝はつまらぬものである。(10-9)

諸の聖者に見(まみ)えようと願い、正しい教えを聞くことを楽しみ、物惜しみの汚れを去った人、--かれこそ<信仰心のある人>と呼ばれる。(10-10)



ブッダは、ーー<信仰心、恥を知ること、戒律を実行すること、喜捨をすること>--これらのことを最高善であると、認めています。

ブッダは、自らが教団を有するようなことはしませんでしたが、宗教の宗教たる所以であるところの、戒律については、多くの事柄を定めました。

それらのことについては、これ以前に記事にしていますから、ここでは繰り返しません。

ただ、戒律とは何か、ということについては、まだ言及していないので、簡単に触れておきます。戒律について詳しく述べていくと、本が一冊書けるほどですから。

普通には、<戒律とは、外面的行動、を律するもの>、つまりは行動規範のことである。このように理解しておけばいいのではないでしょうか。

あくまでも、外から見て、はっきりと<守ったか、守っていないか>が、解るものでないといけません。守ったようでもあるし、守っていないようでもある、というのでは、行動基準になりようがありませんから。



さて、ブッダは、10-3の句については、他の句では、
「物惜しみする人びとは、天の世界に行けない。」
「徳をよく実行したならば、幸せを受ける。」、
とも言っています。

喜捨は、普通には、進んで金品を寄附すること、をいいます。仏教では、<他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことなど、「与えること」>(wiki)行為のこと、です。

つまりは、単に物品のみを問題ではありません。それは、たぶん、貧しい人々への配慮によるもの、と考えることができます。

貧しい(財貨を持たない)人々は、喜捨しようにも物を持たないのですから、施しようがありません。だから、物以外で、喜捨を行うより他に方法がないのです。

そこで、ブッダは、「別に物だけが喜捨の対象ではないよ」と、教えているのだと思います。

(2018年10月14日)