<「ブッダの感興のことば」 第12章 道>の続です。ここでは、初めて釈尊、という言葉が出てきます。明らかな知恵と瞑想により、心を統一し、瞑想を楽しみ、気をつけ
よ。そうすれば、あらゆることから解脱する、と説かれてあります。
よ。そうすれば、あらゆることから解脱する、と説かれてあります。
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これは真っ直ぐな道である。これは実に勇敢な道である。湖のうえでは白鳥の通る道はただ一通りであるように、釈尊が心を静め統一して体得された道は、人々の群れに対してしばしば説く。(12-12)
生まれと老いとの終わりを見るこの人は、ひとびとのためをはかり、慈しんで、唯一つにおもむく道を語る。
この道によってひとは迷いの激流をすでに渡り、また未来に渡るでろうし、また渡る。
(12-13)
窮極に住するために、みずからをととのえるために、清らかになるために、迷って流れる生存の多くの構成要素を区別して知るために、世間を知る人(=仏)がこの道を説きたもうた。(12-14)
その人は、心では思考を静めることによって、無上のさとりの楽しみを体得すべきである。心ではきよらかな精神統一を結成せよ。
遠ざかり離れることから生じた無量(を観ずること)を修して、三つの方法によって三つの執着を破壊して、慎重で、よく気をつけている人は、諸の束縛の絆を捨てる。(12-17)
明らかな知恵を武器とし、瞑想による力をそなえ、心が統一し、瞑想を楽しみ、気をつけている人は、世の中の興亡盛衰をさとって智を具現した人として、あらゆることから解脱する。(12-19)
(12章 道 は、これで終了)
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「生まれと老いとの終わり」について。
これを解説して、小室直樹は、次のように述べています。
行いに関するかぎりすべての人間は罪人である。しかし、信仰によって神の前に義(ただ)しい者となり、紙の恩恵によって罪を赦(ゆる)されて「神の国」に入る。
罪を赦されて永遠の生命を得ることが、キリストにおける救いの構造である。
これに対して、仏教の「罪」の源は、煩悩である。つまり、仏教は、人が「輪廻転生の苦しみから逃れ、永遠の死」を迎えることこそが、救いである、 と教えているということになります。
罪を犯さないで涅槃に達するためには、戒を守らなければならないが、それを妨げるのが煩悩である。
煩悩があるかぎり、死んでもまた生まれ変わる。
生まれ変わり死に変わりして、六道を輪廻転生するのである。(『日本人のための宗教原論』
死んで地獄に行く、という言葉は、正しくは「死んで地獄に生まれ変わる」というべきところです。地獄に行って終わりなのではなくて、そこでまた、生まれ変って、別の世界に行く。
生まれ変わり、生き変わり、の繰り返しが、永遠に続くのです。
解脱しない限り、は。
(2018年10月18日)