2015年5月3日日曜日

「廃棄された」も同然の日本国憲法 我々は、取り戻す事が出来るか:

今日は、憲法記念日である。
この憲法が施行されたとき、誰が日本国憲法の今の姿を、想像できたであろうか。

今のこの憲法の姿は、戦争に負け、「打ちひしがれていた」当時の日本国民の姿に似てきてはいないであろうか。

はたして、このような無残な形にしてしまったのは誰なのか。
憲法記念日の今日、改めてこのことを考える機会にしたいものである。



例によって、各新聞社の社説に目を通してみた。
その中で、ひときわ目についたのが、この河北新聞の社説である。
今までの時点で、私の目についた社説の中では、一等のものである。


最高法規/今こそ憲法に向き合いたい』というタイトルがついている。
最高法規である憲法がどう揺らいでいるのか。
それは、何故なのか。

我々国民は、どう憲法に対して向き合えば良いのか。


まず、どう揺らいでいるのか。

そのことに対して、
”実質的な「改憲」が進んでいる実態にこそある。改憲の動き自体、憲法を重くみる故の対応にもかかわらず、憲法を軽視する流れが強まっているような危うさを感じる」”
と述べる。

特定秘密保護法の制定
「平和憲法」を逸脱したかのような解釈見直しによる集団的自衛権行使容認の閣議決定

政権与党によるメディアけん制の動きが目立ち、民主主義を守り育む報道や表現の自由
沖縄県にある米軍普天間飛行場の移設問題
生存権に深く関わる生活保護など弱者への目配りを後退させる政治の現状

これらを取り上げ、『現憲法の三原則、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の理念を、ないがしろにする動きが強まっている印象を拭えない』という。

さらに、自民党などの議員がよく口にする、次のようなことについては、以下のように述べる。

『権利ばかりで義務の視点が弱い、と現憲法を問題視する自民党の改憲草案は「国防軍の保持」をうたい、「公益」「公の秩序」といった国家優先的な文言を躍らせる。


 そもそも憲法は国民ではなく、暴走しがちな国家権力を縛るもの。世界で受け入れられている立憲主義の根幹だ。』


『押しつけ憲法との指摘もあるが、受け入れたのは国民であり、戦後の平和と繁栄の支柱となった事実も重い。』
 

そして、最後に『現憲法は戦争への反省を踏まえた「国際公約」としての性格も帯び、改憲には広範な説明責任を伴う。そのことも忘れてはならない。』と述べ、社説を結ぶ。


これほどまでに、日本の現状に対する認識を記述し、正面から今日の日本国憲法の危機的状況を指摘した社説は、ほかには見られない。
我々は、何度もこの社説を読み返し、何故そうなったかということについて、真剣に考える必要がある。

特に、「憲法は国民ではなく、暴走しがちな国家権力を縛るもの。世界で受け入れられている立憲主義の根幹」という指摘について、はっきりとそう認識する必要がある。
そうでないと自民党が言っていることが、いかに誤りであるかということを、正しく認識できない。

細かいことを捨て去って、大まかなことを言えば、こうなる。
つまりは、日本国憲法に違反できるのは、国家権力のみである。
我々国民の一人一人が、憲法違反に問われることはない。

我々国民は、国家権力が憲法に違反していないかどうかを、問う側にいるということである。
自民党は、ー少なくとも、自民党の憲法を改正しようと「躍起になっている人々はー、これを覆い隠そうとしている。

「改正」日本国憲法で、国民を縛ろうとしている。
これを本末転倒である、と言わずして、他に何と言えばよい。


「日本国憲法押しつけ論」が後を絶たない。
なぜ日本区憲法に限って、「押し付け論」がいつまでたってもはびこるのか。
この点について考えてみたい。

現憲法が押しつけであるなら、「大日本帝国憲法」は押しつけではなかったのか、と問いたい。
「日米安全保障条約」は押しつけではなかったのか、と問いたい。

「日本国憲法」が米国による押しつけなら、「日米安全保障条約」も同じく押しつけではないか。
そうであるのに何故、「日本国憲法」の改正ばかりが問題になるのか。
問題にするのか。(これを議論すると長くなるので今は、置く)


「大日本帝国憲法」こそ、「押し付け」の元祖ではないか。
あの時、「あまた」といえば言い過ぎであるが、多くの憲法試案が出されていた。

その中においても、植木枝盛の憲法草案は、抜きんでていた。
他にも、立派な憲法草案があった。

それらを無視しての「大日本帝国憲法」ではなかったのか。
それこそ、伊藤博文が、国民に押し付けた憲法ではなかったのか。

その結果、その後の日本の国民が塗炭の苦しみを味わうことになったのは、歴史が証明している。
その「生き証人」が、日本国憲法ではないのか。

だからこそ日本国民は、現在の日本国憲法をこそ、喜んで受け入れたのではなかったか。
決して、嫌々、受け入れた、と私は思わない。

(2015年5月3日  22:22)