2015年5月5日火曜日

読書ノート 『これでも国家と呼べるのか』=小室直樹:


もうすぐ戦後70年を迎える。
早くも、安倍首相が「70年談話」において、何を語るのか注目されている。
バンドン会議、米国議会での演説に続いて、どのようなことを述べるのか。

我々国民が、その談話をいかに評価するのかという上において、一つの
判断基準の材料として、この本の持つ価値は、限りなく大きいと思
う。

謝罪外交の落とし穴、他国による内政干渉とは何か、
国家の要職にあるものが、責任を取らないとどういうことになるのか。
こういうことについて、具体例を挙げ、解説されている。


しかも、その語り口は、解りやすい。

 ★ 本書の目次(さらに細かい小見出しがついているが、それは省略)

第1章 謝罪外交は国際法違反
ー無知。無学の日本の政治家・マスコミ人を告発する
第2章 誰がデモクラシーの敵か
ー中国・韓国の内政干渉を看過する”この国”の異常性
第3章 日本官僚制ー腐食の構造
ー大失敗の責任を取らない集団を許しては、国が滅ぶ
第4章 大蔵省・外務省が日本を破滅に導く
ー財政危機に海外援助を増やす国賊的行為
第5章 日本経済、再浮上の条件
ー根本を見忘れた対応策では、もはや救われない
第6章 ただちに大蔵省を解体せよ
ー金融業を自由市場にすることこそ愁眉の急

 謝罪外交の落とし穴

バンドン会議、米国議会での演説のおいてもそうであったが、安倍首相が「70年談話」において、はたして先の大戦に対して、どういう認識を語るのか。
謝罪が行われるのかについて、関心が集中している。

この、先の大戦の対する謝罪を正式に表明したのが、村山富一元総理である。
いわゆる「村山談話」と呼ばれるものだ。
そして、次に出された「村山書簡」において、次のように述べた。

≪大きな力の差を背景とする双方の不平等な関係に中で、韓国併合条約とそれに先立つ幾つかの条約が締結された。これらの条約は、民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いを入れない。
・・・・あらためて植民地支配の下で、朝鮮半島の人々に耐え難い苦しみと悲しみを与えたことについて、深い反省と心からのおわびの気持ちを表明する。・・・≫
この書簡をもって、「土下座外交の究極のものであり、致命的禍根を現在と将来に残すものである」と、小室直樹氏は断ずる。

さて、この書簡のどこが問題になるのか。

小室氏は、「帝国主義時代の条約」 「植民地支配の下」という言葉に注目する。
 「植民地支配の下」というが、歴史的に観て、いかなる状況にあったのか。

この当時にあっては、「大きな力の差を背景とする双方の不平等な関係」が、当たり前ではなかったのか。
そうであるからこそ、日本は、明治維新を断行し、列強の仲間入りを果たそうとしたのではなかったのか。

しかもそれは、日本から求めたことではない。
やむなく、行ったことである。
それこそ、「大きな力の差を背景とする」列強が存在していたからに他ならない。

何も日本だけが、「大きな力」をもって、他国を侵略したのではない。

≪植民地主義の原則が否定され、植民地が独立し始めたのは、なんと第二次大戦後である。
…要するに、戦後になって初めて、アジア、アフリカ、カリブ海、太平洋にかけて
約100の新国家が独立したのである。≫

つまり、この時をもって、最終的に植民地主義の原則が否定された。
1945年以前においては、まだ、この原則は合法であった。少なくとも、完全には否定されていなかった。

それを現代における法規範をもって、当時の条約の締結に関しての判断をすることは、事後法により裁くことに他ならない。

★ 1910年当時は、「帝国主義」という言葉は、影も形もなかった

「帝国主義時代」という言葉をはじめて使ったのは、レーニンである。
そして、レーニンが『帝国主義論』を出版したのは、1917年においである。
それ以前には、「帝国主義」という言葉は、影も形もなかった、といってよい。

まして、「韓国併合条約」が結ばれた、1910年においては、そうである。
だからこそ、この条約は、当時の国際社会において、承認された。 

それは当然のことである。
イギリスやアメリカをはじめ、多くの国々が、植民地を所有していたのであるから。
 
以上の点について、具体例を挙げて、細かに記述される。


「韓国併合条約」が合法的に結ばれたことについては、「村山談話」を出した、当の村山富一氏も議会において認めている。
そうであるのに、村山氏は、後になって、これを「言葉が足りなかった」と言って、詫びたのである。

それは韓国が、村山氏が認めたことについて猛反発し、韓国の国会において、決議をしたからに他ならない。

もし、この時、村山氏が、ブレなければ、その後の謝罪外交はなかったであろう。
おそらく、心優しく、素朴な人柄である村山氏は、謝罪をすればそれで許されると思ったのであろう。
謝罪をすれば、その後に何が待っているのかまでは、考えなかったのであろう。

米国は、今もって、日本への原爆投下について、謝罪をしたことは一度もない。
それどころか、あれは「正当な行為であった」と主張する。
米国からすれば、当然のことであろう。

もし一旦、原爆を投下したことについて「誤りであった」と認め、謝罪すれば、その責任を取らされることになる。
それがどのようなものになるのかは、福島の事故が証明しているし、今後ますます明らかになっていくことだろう。

際限がない、と言ってよいぐらいの負債を背負うことになる。

そして、一旦認めれば、それだけでは済まなくなることであろう。
今を基準にして、過去を問えば、際限がない。
それは、米国とて同じことである。

日本の政治は、政治家ではなく、官僚によって行われている

3章、4章、5章においては、現在の日本の姿に焦点があてられる。
政治が、もっとはっきりと言えば、国家権力が官僚によって簒奪(さんだつ)されている。
この現実について、詳しく記述される。

日本にとって、政治は政治家ではなく、官僚によって行われている。
政治家は、官僚の「奴隷」と成り果てた。

小室氏は、こう断じる。
「最良の官僚は、最悪の政治家である」というマックス・ウエーバーの言葉を引用して、
このままいけば、やがて日本は滅び去る、とまで言い切る。

はたして現在の我々は、この小室氏の言葉を過去のことであると、否定することが出来るであろうか。

(2015年5月5日  20:15)