2015年5月16日土曜日

日本の歴史家を支持する声明 声明が出るまでの経緯と、歴史観の相違

第二回目は、この声明文が出されることになった経緯(いきさつ)から初めて、歴史観の相違、個人の「歴史観」 の自由という事について、検討してみました。もちろん、あくまでも一つの考え方についての提示であり、この考え方が全面的に正しいといいたいわけではありません。

これは、一つの試みにすぎません。こういう考え方もできる、と述べたにすぎません。この点はあらかじめお断りしておきます。




◆ これまでの一連の流れを観てみる

具体的な内容の検討に入る前に、これまでの一連の流れを観ておきたい。
そうでないと、この文書の内容について、よく理解できない。

事の起こりは、米国での教科書問題に始まる。

今年の1月29日、衆議院予算委員会で、自民党の稲田朋美政調会長が、米大手教育出版社「マグロウヒル」(本社・ニューヨーク)が出版した教科書『伝統と交流』について、安倍首相に質した。

この教科書は歴史家のジェリー・ベントレー氏とハーバート・ジーグラー氏が執筆した。慰安婦については2段落が割かれ、「日本軍は14〜20歳の20万人もの女性を強制的に募集、徴用し、『慰安所』と呼ばれた軍の売春宿で働くことを強制した」と書かれているほか、日本軍が「その行動を隠すため大量の慰安婦を虐殺した」とも記されている。

それについて首相は、在ニューヨーク総領事館員が昨年12月中旬、マグロウヒル社の担当幹部と面会し、「慰安婦などで重大な事実誤認や日本政府の立場と相いれない記述がある」として、記述内容の是正を要請した、と答弁した。

その後、マグロウヒル社は、歴史教科書に出てくる慰安婦の記述を修正するよう求めた日本政府の要請を拒否した。
それだけでなくさらに、歴史教科書に出てくる慰安婦の記述を修正するよう求めた日本政府の要請を拒否した事を、公表した。
そして、「慰安婦」の歴史手事実に対する学者の意見は一致している。執筆者の記述、研究、表現の自由を支持すると述べた。

続いて、3月日にアメリカの歴史学会の月間機関誌3月号に、19人による声明文が掲載された。
それは、教科書の記述は正しい。
日本側の抗議は学問や言論の自由への侵害だとする声明であった。

これを受け、3月17日には、日本の秦郁彦氏ら19人が、
強制連行があったとするマグロウヒル社の記述は誤りである、という声明文をだした。

このあとさらに続いて、4月10日、日本の吉見義明氏と林博史氏が記者会見を開き、強制連行はあった、と述べた。

それは、過去二十数年の調査研究はもとより、アジア各国での被害者の証言から明らかであり、すでに国際社会での共通認識になっている、とした。
そして、安倍政権に対し、河野談話の継承や謝罪・賠償、さらなる調査の必要性を訴えた。

そして最後に来るのが、4月29日の米国議会における安倍首相の演説、となる。

まとめると、こうなる。

① マグロウヒル社が出版した教科書『伝統と交流』の記事。
② この記述についての、稲田議員の質問への安倍首相答弁。
③ 在ニューヨーク総領事館による記述内容の訂正の要請。
④ マグロウヒル社が日本政府の要請を拒否した、という発表。
⑤ アメリカの歴史学会の月間機関誌3月号のマグロウヒル社の記述を支持するという声明文。
 日本の秦郁彦氏らの、「慰安婦問題はない」という声明。
⑦ 吉見義明氏らによる「慰安婦問題はある」という会見。
⑧ 米国議会における安倍首相の演説

◆ 「歴史観」は、個人の内面に関するもの

上にざっと述べた経緯(いきさつ)の末に、今回の米国の日本研究者ら187人による声明文がくる。

だから、この声明文の冒頭にある「日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第2次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明する」という文章が、誰のことを述べているかということは、明瞭である。

それは、まず第一に4月0日に記者会見を行った日本の吉見義明氏と林博史氏である、といえるだろう。

もちろん、具体的な名前は挙げられておらず、「日本の多くの勇気ある歴史家」という表現にとどまっている。
しかも、「多くの」というのがどれほどの人数であるのかは、はっきりとしない。むしろ、日本の歴史家全体からすれば、少数であるかもしれない。

ここで、少し主題と離れる。

歴史という学問は、自然科学ではない。
自然科学でさえ、絶対的真理はない、といえる。あるのは、あくまでも、現時点における、現在解っている範囲においての、科学的事実に対する観方にすぎない。
新しい発見があれば、それらは常に訂正される運命にある。

まして、歴史は社会現象を扱う。
絶対的真理があるはずがない。見方や立場が変われば、当然、その歴史は、それぞれ、違ったものになる。
その歴史について、いかなる歴史的実を取り上げ、いかに記述していくかという事は、人によって違う。
それは当然のことである。

だから、極端なことを言えば、100人いれば100通りの歴史に対する見方、考え方がある。
この歴史に対する見方、考え方、つまり、「歴史観」は、個人の内面に関するものであり、どのような歴史観を持つかは、個人の自由である。

それは、個人の内面に関する自由にあたる。
この個人の内面に関する自由は、もとをただせば、「宗教の自由」から派生したもの。
それが、やがて「意識の自由」となっていった。

我々が、何を考え、何を感じても、まったく自由であり、そのことについて誰からも、―特に権力から―責任を問われない。
心の中で何を考えていても、実際に行動に移さなければ、問題にならない。

問題とされるのは、あくまでも実際に外に現れる行動である。
他人が、ある個人の人間の内面にまでは立ち入らない。
これが近代社会が産み出した考え方である。

これは、一般には、「良心に自由」と呼ばれる。
だから個人、個人がどのような歴史観を持ち、信じるかという問題は、「良心に自由」に関することである。

◆ 「正しい」歴史観というようなものは存在しない。

本来、どのような歴史観を持つかという事は、他人からとやかく言われる筋合いのものではない。
それは、国家間においても、同様だ。

今回の問題は、日本の政府が、米国の教科書会社の記述内容の変更を迫った、という事に端を発している。
つまりは、米国における国内問題を、外国である日本の政府が、外交ルート通じて口出ししたことが原因である。
このことは、「歴史観」がどうという前に、内政干渉にあたる。

もちろん、歴史の記述に関して、訂正を要請するというようなことは、「歴史観」の変更を迫るものであり、「良心に自由」の侵害に当たる。

もし、これが許されると安倍政権が考えるのなら、中国や韓国が日本に対して、歴史教科書の記述の訂正を要求してきても、それを非難することは出来まい。

日本が米国に要求することは出来るが、中国、韓国が日本にそのような要求をすることは出来ない、というような論理は通るまい。

だから、国にであれ、個人にであれ、あなたの歴史観は間違っているから、改めろ、というようなことをいう事は、間違っている。

もとより「正しい」歴史観というようなものは存在しない。もし、そのようなものが存在するとしたら、歴史を研究すること自体、無意味である。
それは賛成か、反対かという多数決の世界のことになる。

そのようなものは科学ではありえない。
ここまで書くと、ではもうこの文書の内容について、検討する必要はないではないか、という話になるかも知れない。

だが、仮説の一つとして、検討する意味は十分にある。
次回は、その内容について、日本として取るべき態度と関連させて、検討してみたい。

(関連サイト案内)
慰安婦など歪曲 米トンデモ教科書の中身 首相、国際発信強化へ=zakzak
慰安婦記述の米教科書、日本政府の修正要請を拒否=wsj
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(2015年5月16日)