2015年5月7日木曜日

「慰安婦問題」を持ち出す姿勢を改よう 対日外交への変化の兆しか

久しぶりに、中央日報を読んだ。
≪噴水大≫というコラム?に注目すべき記事を見つけた。

どこに注目したかというと、≪何をさておいても「慰安婦問題」を先に持ち出す、そういう外交姿勢を改めよう≫という主張についてである。




★ 本当の外交とはこういうもの
≪人と人、あるいは国と国。お互い親しく過ごすには相手の特性を先に把握することが重要だ。 
  先日、オバマ大統領と安倍首相の両首脳が会う場面。「友情誇示、称賛リレー、国賓待遇、そしてお世辞…」。終始、憂うつだった。韓国ともっと親しいと思っていた米国。それは錯覚だった。自分たちだけが孤独になった気分。その日、慰安婦問題は両首脳の間でイシューにもならなかった。それでも中国は私たちの兄弟か。いや。中国も最近、安倍首相との関係が妙だ。 
  「一緒に行こう」というリッパート駐韓米国大使の一言に治癒祈祷会まで開きながら大騒ぎし、何かあれば怒り、すぐにみんな忘れて。これではあまりにも単純ではないだろうか。利益を追って動く国際社会に「常に我々の味方」はない≫=中央日報

外交は、言葉をもってする「戦い」である。
孫子も言うように、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」である。

言葉をもってする「戦い」が決裂すれば、武力をもっての戦いによる外交。
文字通り戦争となる。
ここまでいかないようにするのが、真の外交だ。

先にあげた孫子は、<戦わずして、勝てるなら、それが最上策である>という意味のことを述べている。
可能な限り、戦争を避ける外交努力をしてこそ、外交の名前に値する。


★ あまり耳触りがいいとは言えない言葉を含むが
≪借金だらけの債務者に「お金を返さなければ対話をしない」と会うたびに催促すれば、お金も受けられず死ぬまで敵になる。相手を先に分析し、それに合わせて対応してこそ、お金も返ってくる。日本に接するたびに慰安婦問題を先に突きつけてきた従来の外交方式を今からでも少し変えてみよう一日も早く解決するべき重要なイシューであるのは確かだが、ひとまず背中の後ろに隠し、日本の国民性に合わせて我々も仮面でもかぶって同じように二重的に接近しよう。国と国の間では義理より実益だ。 
  「元慰安婦女性53人ノーベル平和賞候補推薦案」の話を聞いた。実によい。そのような形で隠密に拡大していき、国際問題として公論化しよう。私たちの口では泰然と日本と対話し、他人の口を通じて慰安婦問題を国際問題として取り上げさせる。これが本当の外交だ。≫ =中央日報
確かに、この記事の全文を読めば、我々日本人にとっては決して気分のいいものではない。
それは、この記事の日本に対する見方が間違っているからという事ではない。


そうではなく、少なからず、我々日本に思い当たる節がある点を、指摘しているからである。
確かに我々は、表と裏を使い分けることに長(た)けている面がある。

このことは、否定しようがない。

人は、「何も思い当たることがない事実」について、非難されても、腹を立てはしない。
事実でないことを言われても、思い当たる節がなければ、腹の立てようがない。

理由なく、非難されること自体はあまり気分のいいものではないことは確かだが、もともといわれのないことで相手を攻めたてようとするものを真剣に相手をしても、こちらが馬鹿を見るだけのことである。

馬耳東風、と聞き流す。
それが大人の対応というものであろう。

だが、この点を含めたとしても、この記事が言わんとする所は、重要な点を含んでいる、と思う。
少なくとも、こういう主張が出てくるようになったことを、歓迎したい。
我々も、ある一部分だけを観て、感情的に、あるいは、短絡に反応することは避けるべきである。

それでは対話にならない。
もっとも、初めから「対話をする気などない」という事であれば、話は別であるが。

★ 他国に、外交的手段を使って強制しない

確かに、歴史的に観れば、特に韓国側からすれば、許し難いことであるかも知れない。
それは、解らぬ訳わけではない。

だが、心からそう信じているものに対して、その考えは誤っているから改めろ、と命令する権利は誰にもない。
また、そう出来るものでもない。
私はそう思う。

歴史観に関するような、人間の内面に関することについては、特にそうである。
そのようなことについて強制をすることは、人間が本来的にもつ自由な権利を侵すことになる。

人間の内面に関することには、外部からは立ち入らない。
特に政治的な権力をもって、押し付けない。

また、ある国が、他の国に対して、それを押し付けない。
まして、外交的手段を使って、強制しない。
そうすることは、内政干渉にあたる。

それが近代的な国際社会における倫理・原則である。

もちろん良い意味において、外交上の深慮遠謀を計ることは、否定されるべきではない。
むしろ、推奨すべきことであるかもしれない。
だが、それと、相手国に対して自国の歴史観を押し付けるのとは、訳が違う。

かって田中角栄は、中国との交渉において、「だからこそ、私がわざわざ、こちらから出向いてきたのです。」と述べた。

「わざわざ、こちらから出向いてきた」ときに、相手が一番嫌がる話から切り出されたのでは、話はそこでストップしてしまう。
もちろん、これは出向く意思があるという事が前提の話である。

出向く意思さえない、という事であれば、外交も何もない。

(2015年5月7日   10:03)