2015年5月11日月曜日

日本の歴史家を支持する声明 誰に向かって出されたものか


先日、欧米の日本研究者ら187人による「日本の歴史家を支持する声明」という文書が出され、公開された。この文書について、何回かに分けて、考察していきたい。第1回目は、この声明文は、一体、「誰に向かって出された文書」であるのか、ということについて考えてみる。




 この文書を素直に読めば、それは「日本の歴史家」に宛てられたもの

この文書は、「日本の歴史家を支持する声明」というタイトルが付けられている。
この声明文は、その文書の冒頭で、以下のように言っている。


下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第2次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。

また、次のようにも述べる。
彼らの世代は、私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。
性暴力と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和
と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得る限り偏見
なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。
この文章を素直に読めば、この文書が日本の歴史家に宛てられたものである という事は、明白である。

 朝日新聞と、京都新聞の判断

さて、このユースをはじめに報じた 朝日新聞 は、次のように書いている。
主に米国の日本研究者、歴史学者ら187人が連名で「日本の歴史家を支持する声明」と題する文書を5日に公表した。戦後70年間の日本と近隣諸国の平和をたたえつつ、歴史解釈の問題が「世界から祝福」を受ける障害となっていると指摘。過去の過ちについて「偏見なき清算」を成果として残そうと呼びかける。
この記事でも、あくまでも、日本の歴史家へのメッセージである、という認識の記事になっている。

ところが、 今日の京都新聞が、興味ある記事を載せた。
それは、≪歴史を直視 清算求める≫という見出しの記事。

見出しの次には京都新聞が、この文書をどう見ているかという事を示す、「小見出し」が続く。
そこには、「欧米の日本研究者らが、政府への声明」と書いてある。

では、なぜ京都新聞は、この声明文について、このように明確に「政府への声明」と述べるのであろうか。
そのことについても、記事は、理由を明確にしている。

それは、この文書が送り付けられた先が、安倍首相官邸である、という事実のもとずく。
そして、それを官邸が公開した、というわけである。

このような事情であるので、京都新聞はためらうことなく、「政府への声明」と述べたのであろう。

◆ この文書はまぎれもなく、安倍首相に向かって出されたもの

つまり、こういうことになる。
この文書は一見したところは、日本の歴史研究者にあてた文書のような体裁をとっているが、まぎれもなく、安倍首相に向かって出されたものである。

何故なら、この文書は、朝日新聞に届けられたわけでもなく、日本の歴史研究学会に届けられたわけでもない。
その宛先は、日本の首相官邸であった。

さて、京都新聞はこれを裏づけものとして、次のようにその記事で書く。
ダデン教授は、「植民地支配と侵略」「心からのおわび」などに言及した村山富一首相談話を、安倍首相が戦後70年談話としてそのまま繰り返すべきだと提案する。
 安倍首相が「同じことを言うのであれば、談話を出す必要はない」と発言したことを念頭に、ダデン氏は日本政府の真意が理解されるまで『同じ言葉を繰り返すことが重要だ」と述べ、声明に込められたメッセージを代弁した。 
もちろん、これらの教授の談話は、必ずしも、この文書に署名した全員の総意を代表するものではないかもしれない。
「声明に込められたメッセージを代弁した」というのは、あくまでも、この記事の書き手の主観であろう。

結論としてこの文書は、安倍首相に宛てられたものであると判断することができる。
そしてそれが、今この時期に出されたことを思えば、このことは安倍首相の米国での議会演説に対する声明文であるともとれる。

次回は、文書の内容について、詳しく検討したい。

(2015年5月11日  14:55)