2015年5月23日土曜日

認識こそが重要であり、謝罪が目的ではない 村山富市氏の勘違い


村山富市氏が、過去に何をしたかを認識することが重要であり、謝罪すれば終わりではない、と述べていた。

まるで判を押したように、10年ごとに首相談話を出すのが、慣例となっている。これについて、かって小泉元首相が「別に10年ごとに出す必要もないと思う。騒ぎすぎだ」と述べたことがある。
これは、安倍首相が出すといわれている、70談話に「お詫びと反省がキーワードだが」、という記者の質問に答える形で、出てきた言葉だ。


一方で、村山富市元首相も、この「安倍談話」に注文を付けている。
今日、それに関して、新しい情報に接したので(もっとも、この情報が公にされたのは、今年の4月のことであるが)、思うところを述べてみたい。

 村山富市氏が言い続けてきたこと

もっとも、私は、すでにこのブログで、以下のタイトルで、村山富市元首相についての記事を投稿した。

「村山談話」とは何か。安倍首相の訪米によせて(改題):
反省し、謝罪すべきなのは誰か 村山富市元首相が、都内で講演

「村山談話」とは、
私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」
と、村山富市氏が、首相である時にのべたものだ。

反省とおわびをすれば、未来があやまちのないものになる、という思いを表明されたもの、といえる。

また続いて、「村山書簡」を出し、日本が、大きな力の違いを背景に、植民地支配の下、朝鮮半島の人々に耐え難い苦しみと悲しみを与えたことについて、深い反省と心からのおわびの気持ちを表明した

これも、村山氏の、「深い反省と心からのおわびの気持ち」こそが、未来志向型の日韓関係を築きあげるという強い信念から、出されたものであった。


 謝罪が目的ではない、と村山氏が述べた

ところが、その村山氏が、
「もし、村山談話の“植民地支配”と“侵略”の問題を骨抜きにしたり、触れること避けたりすれば、韓国と中国は再び日本に不信と懸念を抱くだろう」
と述べた。
だがそのあとで、謝罪が目的ではないと強調して、
「ゴールは謝罪することではない。重要なのは、良い事であろうが悪いことであろうが、我々が過去に何をしたかという事を認識することだ。それは、韓国や中国の人々に謝れば終わるという問題ではない」
 と述べた。
このように、記事は伝えている。
村山元首相、英紙で談話継承訴える “謝れば終わる問題ではない”=New Sphere

これは英フィナンシャル・タイムズ紙の村山氏への、インタビュー記事として掲載された。

「韓国や中国の人々に謝れば終わるという問題ではない」のであれば、では、「どうすべきである」と村山氏が述べたかまでは、この記事には書かれていない。

村山氏は、一体全体、どうすれば済む問題であるというのであろうか。
氏は、「村山談話」でも、「村山書簡」でも、反省とおわびの気持ちを表明することこそが、重要なことである、と言い続けてきた。

ところが今度は、「我々が過去に何をしたかという事を認識すること」が重要で、「謝れば終わるという問題ではない」という。
理解不能だ。


 過去に何をしたかという事を認識することが、ゴールか

村山氏の言うようにすれば、本当にことは済むのか。
韓国、中国が、何と言っているか。


韓国も、中国も「反省」も「おわびの気持ち」も不十分である。
まだまだ、反省したりないし、真の謝罪になってはいない、と日本に対して声高に、叫んでいるのが、現実ではないか。

「加害者と被害者の歴史的立場は、1000年たっても変わらない」という認識を持つ相手に対して、過去に何をしたかという事を認識することで、理解が得られるのか。

もし村山氏がこころから、我々が過去に何をしたかという事を認識することが重要で、謝れば終わるという問題ではないと思うのなら、まず氏自らが、そのことを、中国や韓国に向かって、説明すべきではないか。

高齢の村山氏に対し、失礼であることは、十分承知の上で、あえて反論を試みた。
高齢とはいえ、―むしろ、高齢であるがゆえにというべきかー今なお、その発言が大きな影響を日本に及ぼすと思うので、
「しつこい」と思われるかもしれないが、記事にした。

(2015年5月23日)