2014年5月13日火曜日

児島襄著『満州帝国』(Ⅲ)ソ連軍進攻と参謀本部の無策、無定見

『満州帝国』の第3巻です。
条約を破り、満州帝国に攻め込んできた、ソ連軍の動きと、それに伴う関東軍の動きや東京の参謀本部の無定見、無策、無情な決定などについて、書かれています。


≪目次≫
ソ連軍の足音
ソ連軍侵攻
昭和20年8月
ポツダム宣言受諾
皇帝溥儀の退位
無主の地にかえる


日本が満州を征服したのは、ソ連と、世界最終戦争への備えとして、であった。
そして、何よりも、ソ連に対しての防備を目的として、満州を日本の傀儡政権に仕立てた、はずであった。

ところが、1944年4月ごろの状況は、「満州は、すでにソ連に対しては、攻撃力がないだけでなく、防衛力も不十分であり、しかもそれを補強できなくない事態になっている・・・」というものであった。

一方で、その頃から既にソ連は、日本に対して「敵国」という言葉を用い始めていた。
また、12月7日、21日と、B29が、奉天を空襲した。

ようやく、人々は、戦火が近づきつつあるのを、感じ始めていた。

関東軍は、1月17日に、「関東軍作戦計画」を作成した。
それは、朝鮮との境の、通州まで下がり、長期戦に供える、と言うものであった。

だがその計画の中に、国民の避難の対策は、十分ではなかった。

4月には、ソ連は日本との中立条約の破棄をする旨を通告してきた。
1年後には、条約が破棄されることになった。

しかし、ソ連は既に1945年2月のヤルタ会談前に、対日参戦を決定済み、であった。

そして、4月30日ごろから、ソ連軍の満州国境へ集結が始まっていた。
戦車や他の武器、兵隊が続々と送り込まれていた。

日本側も、それを探知していた。
関東軍は、ソ連の参戦は間違いないもの、と判断し、準備を始めた。

一方、東京の「最高指導者会議」は、支那の一部を放棄して、その部隊を満州に送る計画を立てたが、天皇の反対により、実現しなかった。


東郷外相は、この時期においてもまだ、ソ連の仲介による和平を堤議した。
ソ連が、和平のために働いてくれる、との希望的観測を持っていた。

他方で、参謀本部は、満州を諦めていた。

だが、満州放棄すると決まった地域の居留民らの避難については、参謀本部は、「・・ソ連が早急に対日戦に踏み切るとは考えておらず、かついま国境付近の居留民を引き揚げることは、軍の企画を暴露し、ひいてはソ連侵攻の誘い水となる・・・・」ので、出来ない、との見解であった。

この見解からは、

ソ連軍の参戦は間違いない、と判断しながらも、
日本は、ソ連軍を阻止できない、ので、
だから、ソ連軍に参戦してほしくない、という

矛盾に満ちた感情がうかがえた。

これは、「結局は国家としての満州国に対する認識が不十分なため、自らの不信の反映として敵中に身をおくような不安を感ずる未熟な日満関係が指摘される」と、児島は書く。

ソ連への働きかけとして、広田・マリク会談がおこなわれていたが、それは「見せかけのもの」でしかなかった。

ソ連は、「のらりくらり」して、明確な回答をすることを避けた。
その間にも、着々と戦争の準備をしていた。


この頃には、ようやく、参謀本部も、8月にはソ連との戦争が始まる、との判断に達した。
だが、何も対策を講じなかった。

ソ連にいる佐藤大使は、「ソ連の和平仲介」を望むのは無理、との判断であった。
「国体護持」を条件に、早く降伏すべきである、と打電してきた。

その後、ポツダム宣言が出され、8月6日には、広島に原爆が投下された。
8月8日、ソ連軍が、国境を越えて進攻を開始した。

日ソ中立条約の違反である。
満州国は、独立国であったのだから、これは「立派」な侵略行為、でもあった。

そして、満州に対しては、宣戦布告なき戦争であった。(この稿、途中)

(以下、追加の記事)
「無主の地」である満州を占領し、来るべきソ連との戦争や、米英戦に備えるという目的のもとに、満州事変を起こした石原寛治であったが、満州事変を実行する中で、その考えが変化していた。

石原寛治は、あるいは「共産制」のようなものを、意識するようになったのかもしれない。

だが、「5族協和」という理想は、やはり無理があった。
少なくとも、指導者のほとんどの頭の中にはなかった、と思われる。

あったとしても、形式上の事であった、と思われる。
それは、平時は表面化しない。
が、非常時や混乱の中においては、表面化してくる。

当時の満州の人口は約4300万人。
そのうちの、約154万人が「日本人」であるに過ぎない。
そして、その頂点には、日本人がいた。

4パセントにも満たない人口の「日本人」が、支配していたとなれば、反発は当然であろう。
(果たして、この「日本人」の国籍は、どうなっていたのであろうか。)

それは、戦争に突入すると同時に、表面化した。
日本軍や「日本人」への攻撃となって表れた。

満州帝国は、平常時においては、石原寛治の理想を実現した。
工業は発展し、都市は、より一層整備され、自然の美しさと相まって、まさに「王道楽土」が現出した。

児島は、あとがきで、「もっと書きたいことや書いておきたいことが、たくさんあった」と書いているように、この点に関しては、「読者としては、不満」が残った。

児島の記述からは、「王道楽土」の現実がいかなるものであったかは、「戦争の合間」に、その一端を見る事が出来るだけである。

だが、1000キロにも及ぶ、幅25mの縦貫道を通し、幅が1500m、高さ90mにも及ぶ巨大なダムを建設し、数々の溶鉱炉やそれに付属する施設などを、稼働させるという偉業は、日本や支那の内地においては、到底実現する事のできなことであろう。

戦後にソ連が持ち去った、その膨大な規模の設備と工業製品の種類が、それをうかがわせる。
もしかすると、ソ連の発展は、満州から持ち去った、工業設備や製品が基礎となったのかもしれない、と思えるぐらいである。

もし、関東軍が満州に駐屯していなければ、まさに理想の国が建設できたかもしれない。
もちろん、これは、当時の日本の要請からすれば、空想でしかないが。

だが、ソ連軍の進行とともに、退避したことは、「満州人」の誇りをなくすことであった。
彼ら(日本人)が、いかにも「中途半端な考え」で、満州の地に住んでいたことの証明であった。

5族協和の理想が、単なる「理想」でしかない、ことの証明でもあった。

私は、空想する。
もし、関東軍が、満州の政府が求めたように、満州を「無防備都市」に宣言していたなら、あるいは満州は救われたかもしれない。

「無防備都市宣言」を出したにもかかわらず、軍事進攻すれば、ソ連の行為は、連合国が旗印とした「自由や民主主義をうらぎるもの」になるから、一時の混乱は避けられないにしても、国家を維持することは出来た、であろう。

そうなれば、世界で、最も進んだ国家となっていたかもしれない。
そうであれば、満州事変は、「無法な事」であったかもしれないが、それを償って、あまりあるものとなったであろう。

(2014年5月13日)