「日中戦争」について読んでいくうちに、満州について、調べてみたくなってきた。
張作霖に暗殺があり、満州事変が起こり、盧溝橋と続くわけであるが、これらは全く、別々に起きたことではない、ということが、解ってきた。
だが、これらの事を考える時、今までは、満州はいわば、「所与のもの」として、見てきていた。
満州事変が起きた後は、舞台は、「中国の内地」へと移っていく。
その後、ノモンハンがあるが、ノモンハン自体は、激しい戦闘ではあったが、局地的で、「中国の内地」での戦いには、それほどの影響はなかった。
だから、その後、肝心の満州からは、離れていく。
しかし、「満州を取ること」こそが、日本にとって「死活問題」であったはずである。
その満州を横において、「中国の内地」における戦争ばかりに、力が集中されていくこと、になるが、それは、本来の目的を見失うもの、であろう。
それを忘れて、目先にばかりとらわれたことが、「日中戦争」を泥沼に陥れた原因の一つともいえると思う。
それで、満州事変以後の満州は、いかなる世界であったのか。
そのことを調べてみたくなった。
また、以下の事にも関心がわいた。
何故満州に進出していこうとしたのか。
何を求めて、満州に行こうとしたのか。
満州で、何を実現しようとしたのか。
それは、結局いかなる結果を生んだか。
これらについても、改めて知りたいと思い、まず、この本を読んでみることにした。
*
(目次)
無主の土地
奉天城
中村辰太郎大尉事件
事変前夜
昭和6年9月18日
朝鮮軍派兵
溥儀の天津脱出
*
アマゾンから届けられた本を手に取って、パラパラとめくってみると、やはり内容は「戦史っぽい」という感じだ。
特に、第1分冊目は、ほとんど、戦史である。
2冊目以降から、戦史でないような、項目も出てくる。
あらたな知識が得られそうである。
*
導入部の「無主の土地」では、その頃の満州についての、大まかなスケッチがしてある。
旅順は、かっては、ロシアが領有した場所。
日露戦争の戦果として、辛うじて、獲得した土地。
いわば、多くの兵士の「汗と血」と交換に、「手に入れた土地」であった。
その頃は、関東州といった。
そこを守る軍隊なので、「関東軍」と称した。人数は、1万人あまり。
その満州は、地下資源が豊富で、土地が肥えていた。
そして、国策会社である、南満州鉄道(満鉄)があった(資本の、50パーセントが日本の政府)。
満鉄は、道路、水道、電気、ガス、衛生、市場などが整備された、近代都市の建設をする。
そして、大連、旅順、奉天、長春などに、欧米式の「大和ホテル」を経営した。
また、各都市には、満鉄病院や学校なども設立、経営。
さらに、撫順、煙台の炭鉱、鞍山の鉄鉱を開発する。
*
当時の日本の人口は、約9、000万人
内地(日本の本土)に、約6、300万人。
あとの、2、700万人が、台湾、朝鮮、樺太,関東州、南洋群島の日本の領地に住んでいた。
だが、何処も、ほほ一杯になり、どこかに住む土地を求めていた。
そこで、目が付けられたのが、満州であった。
上で見たように、既に、満州は、開発が進んだ土地であった。
そこで、さらにそれを、徹底しよう、と考えた訳である。
それは、松岡洋介の「満蒙は、日本の生命線である」と言う言葉に代表される。
そして、それを計画し、実行しようと考えたのが、石原莞爾である。
彼は、航空機の重要性にも、いち早く注目した人でもあった。
そして、次の戦争は「日米ソ」が中心の戦争となる。
さらに、それに続く戦争は「最終戦争」となり、それは、米国と日本の戦争になる、という考えであった。
彼は、また、近代戦における戦争は、「消耗戦になる」と考えた。
消耗戦は、持久戦でもある、とも考えた。
だが、日本の内地には、それに耐えうるだけの資源が存在しない。
そこで、彼が目を付けたのが、満州であった。
つまり、彼の構想は、満州を占領し「最終戦争を勝ちぬくための兵器工場」にすることであった。
そして、それは、彼の頭に中だけにあったこと、ではなかった。
当時の指導者の多くが、考えたことであった。
それを、現実にしたのが石原莞爾であった。
*
その頃、中村辰太郎大尉事件が起きた。
満州奥地を軍事探索していた、中村辰太郎大尉が中国軍にとらわれ、殺害された事件である。
その前には、万宝山事件(中国人と朝鮮人農民とのいざこざ)が起きていた。
これらの事件で、満州では、排日機運が高まっていた。
一方で、日本国内でも、中村辰太郎大尉事件が明らかになり、反中国への動きも高まっていた。
「時は今」と考えた石原莞爾らは、決断した。
天皇の裁可なしで、関東軍を動かした。
だが、いざ、戦闘となると、軍部も、政府も、腰が据わらなかった。
満州事変が、日中戦争へと拡大することを恐れた、のであった。
朝鮮軍が救援に行くことも、現地の勢いに押されて「渋々」認めた。
天皇も、裁可したが、「次から注意せよ」と述べた。
児島は、「関東軍にとって”真”の敵は、・・・むしろ日本政府であった・・』と書く。
やがて、石原らは、溥儀を満州に連れてくる。(1分冊目、ここまで)
*
図書メモ :
著者 児島 襄
全 345ページ
発行所 文芸春秋 (分春文庫版)
発刊 1983年 第1刷
区分 アマゾンで、「古書」として購入
(2014年5月12日)
張作霖に暗殺があり、満州事変が起こり、盧溝橋と続くわけであるが、これらは全く、別々に起きたことではない、ということが、解ってきた。
だが、これらの事を考える時、今までは、満州はいわば、「所与のもの」として、見てきていた。
満州事変が起きた後は、舞台は、「中国の内地」へと移っていく。
その後、ノモンハンがあるが、ノモンハン自体は、激しい戦闘ではあったが、局地的で、「中国の内地」での戦いには、それほどの影響はなかった。
だから、その後、肝心の満州からは、離れていく。
しかし、「満州を取ること」こそが、日本にとって「死活問題」であったはずである。
その満州を横において、「中国の内地」における戦争ばかりに、力が集中されていくこと、になるが、それは、本来の目的を見失うもの、であろう。
それを忘れて、目先にばかりとらわれたことが、「日中戦争」を泥沼に陥れた原因の一つともいえると思う。
それで、満州事変以後の満州は、いかなる世界であったのか。
そのことを調べてみたくなった。
また、以下の事にも関心がわいた。
何故満州に進出していこうとしたのか。
何を求めて、満州に行こうとしたのか。
満州で、何を実現しようとしたのか。
それは、結局いかなる結果を生んだか。
これらについても、改めて知りたいと思い、まず、この本を読んでみることにした。
*
(目次)
無主の土地
奉天城
中村辰太郎大尉事件
事変前夜
昭和6年9月18日
朝鮮軍派兵
溥儀の天津脱出
*
アマゾンから届けられた本を手に取って、パラパラとめくってみると、やはり内容は「戦史っぽい」という感じだ。
特に、第1分冊目は、ほとんど、戦史である。
2冊目以降から、戦史でないような、項目も出てくる。
あらたな知識が得られそうである。
*
導入部の「無主の土地」では、その頃の満州についての、大まかなスケッチがしてある。
旅順は、かっては、ロシアが領有した場所。
日露戦争の戦果として、辛うじて、獲得した土地。
いわば、多くの兵士の「汗と血」と交換に、「手に入れた土地」であった。
その頃は、関東州といった。
そこを守る軍隊なので、「関東軍」と称した。人数は、1万人あまり。
その満州は、地下資源が豊富で、土地が肥えていた。
そして、国策会社である、南満州鉄道(満鉄)があった(資本の、50パーセントが日本の政府)。
満鉄は、道路、水道、電気、ガス、衛生、市場などが整備された、近代都市の建設をする。
そして、大連、旅順、奉天、長春などに、欧米式の「大和ホテル」を経営した。
また、各都市には、満鉄病院や学校なども設立、経営。
さらに、撫順、煙台の炭鉱、鞍山の鉄鉱を開発する。
*
当時の日本の人口は、約9、000万人
内地(日本の本土)に、約6、300万人。
あとの、2、700万人が、台湾、朝鮮、樺太,関東州、南洋群島の日本の領地に住んでいた。
だが、何処も、ほほ一杯になり、どこかに住む土地を求めていた。
そこで、目が付けられたのが、満州であった。
上で見たように、既に、満州は、開発が進んだ土地であった。
そこで、さらにそれを、徹底しよう、と考えた訳である。
それは、松岡洋介の「満蒙は、日本の生命線である」と言う言葉に代表される。
そして、それを計画し、実行しようと考えたのが、石原莞爾である。
彼は、航空機の重要性にも、いち早く注目した人でもあった。
そして、次の戦争は「日米ソ」が中心の戦争となる。
さらに、それに続く戦争は「最終戦争」となり、それは、米国と日本の戦争になる、という考えであった。
彼は、また、近代戦における戦争は、「消耗戦になる」と考えた。
消耗戦は、持久戦でもある、とも考えた。
だが、日本の内地には、それに耐えうるだけの資源が存在しない。
そこで、彼が目を付けたのが、満州であった。
つまり、彼の構想は、満州を占領し「最終戦争を勝ちぬくための兵器工場」にすることであった。
そして、それは、彼の頭に中だけにあったこと、ではなかった。
当時の指導者の多くが、考えたことであった。
それを、現実にしたのが石原莞爾であった。
*
その頃、中村辰太郎大尉事件が起きた。
満州奥地を軍事探索していた、中村辰太郎大尉が中国軍にとらわれ、殺害された事件である。
その前には、万宝山事件(中国人と朝鮮人農民とのいざこざ)が起きていた。
これらの事件で、満州では、排日機運が高まっていた。
一方で、日本国内でも、中村辰太郎大尉事件が明らかになり、反中国への動きも高まっていた。
「時は今」と考えた石原莞爾らは、決断した。
天皇の裁可なしで、関東軍を動かした。
だが、いざ、戦闘となると、軍部も、政府も、腰が据わらなかった。
満州事変が、日中戦争へと拡大することを恐れた、のであった。
朝鮮軍が救援に行くことも、現地の勢いに押されて「渋々」認めた。
天皇も、裁可したが、「次から注意せよ」と述べた。
児島は、「関東軍にとって”真”の敵は、・・・むしろ日本政府であった・・』と書く。
やがて、石原らは、溥儀を満州に連れてくる。(1分冊目、ここまで)
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図書メモ :
著者 児島 襄
全 345ページ
発行所 文芸春秋 (分春文庫版)
発刊 1983年 第1刷
区分 アマゾンで、「古書」として購入
(2014年5月12日)