2014年5月12日月曜日

児島 襄著『満州帝国』Ⅱ・・・王道楽土の理想と現実 

「王道楽土」と言われた満州の地。
石原寛治の目指したもの、その理想と現実は、どんなものであったかについて、知ることができました。


もし、この理想が実現していれば、今の米国以上の素晴らしい国が、地球上に誕生していたことでしょう。

(目次)
錦州陥落
新生国家への道
満州帝国の誕生
満州開発
建国新廟鎮座祭
建国十周年
昭和十九年前後

奉天での蜂起の後の課題は、熱河省の錦州であった。
ここを落せば、満州をほぼ「制定」したことになる。

陸軍省も、匪賊の討伐を名目に、錦州への進攻を認めた。
だが、張学良が錦州を戦わずして、放棄することを決定したので、難なく錦州は落ちた。

錦州東北軍は、戦わずして、退却していった。
これで、満州の東北軍を、ほぼ一掃できた。

石原寛治は、この満州事変を通じて、『支那人協力者の「軍閥打倒の激しい気持ち、献身的な努力、政治的な才幹の発揮」などによって「満蒙の地に日本人、中国人の提携の見本、民族協和による本当の王道楽土の建設の可能性』を信ずるようになった。

石原大将は「・・付属地関東州も全部返納してしまって・・・」「・・出来る新国家そのものに日本人も入り、支那人も日本人も区別なくはいっていくのがよろし・・」かろう、という考えに変わっていった。

だが、日本の方針は、満州国を「満州傀儡国家」とすること、であった。
日支を平等に扱う、という、石原寛治の構想は、潰えた。

1932年2月18日、満州は、「東北省は完全に独立した」との宣言が発表された。
3月3日、満州の建国宣言が出された。

国首は「執政」。
その地位には、溥儀がついた。

長春は、新京と改名された。
国旗は、新五色旗。

リットン調査団による報告を受けた、国際連盟は、「満州が支那の領土であり、日本が領土を侵略した」。
だから、満州における独立運動は「自発的なものとは認められない」と結論付けた。

日本は国際連盟を脱退した。
関東軍は、残る熱河省の討伐に取り掛かった。

承徳が落ち、古北口も占領された。
この戦闘を停止するための、塘沽停戦協定が結ばれた。
中国軍は万里の長城線から、南に下がった。

これで、北支の戦火が収まった。

ほどなく、満州は「満州帝国」となった。
これで、溥儀も、念願の満州帝国の皇帝となった。

その頃には、満州への日本人の流入が盛んとなった。
また、満州国政府部内へも、日本人が多く就職した。

それにつれて、日本人が、「いばる」ようになってきた。
石丸中将(満州国陸軍)は、「日満の融和を阻害するのは、日本人である・・・」と断じていた。

1937年の9月に、内地に転属になっていた石原少将が、満州に戻ってきた。
さっそく、彼は、満州産業開発5か年計画を作成する。

鉄、石炭、鉛、電力、農産物、畜産物などの自給率を、5年間で、2~3倍に引き上げることを計画した。

鉄道、道路、港湾の開発。
さらには、日本人を500万人移住させる計画を立てた。

その経費は、28億7千万円。
その年の日本の一般会計の予算は、24億円であった。

関東軍は、鮎川義介の「日産」を移転させ、国策会社「満州重工業開発株式会社」(満業)を設立させた。
資本金は、満州国政府が、50パーセントを持った。

5年計画は、順調に進んでいた。
だが、支那事変が始まり、1939年には、ついに、第二次世界大戦がはじまった。

自然、米英からの輸入が、日本にも、満州にも、限られたものになってきた。

皇帝溥儀は、天照大神を祀ることを、天皇に申し出た。
だが、天皇は、良い返事をしなかった。

だが、とにかくも、祀ることになった。
建国新廟に天照大神を祀ったことは、満州国民には、「日本の支配の強化」と解釈され、日本への不満と反抗を蓄積させた。

この時期、松花江のダム建設が、完成を迎えていた。
高さ91m、長さ1500m、最大出力は、70万kw。

だが、日本の戦況が不利になるにつれて、資材が止まり、とん挫した。
また、鞍山の工場も、B29の空襲を受けた。

満州の「重石」であった、山下大将が、マニラへと、去った。

ソ連が参戦するという秘密情報が、もたらされた。
しかし、情報提供者が「素行が悪い」という理由から、信用されなかった。

打電を受けた、参謀本部も、無視した。
だが、それは、チャーチル、ルーズベルト、スターリンの「カイロ」会談の内容を伝えるものであった、のに。

図書メモ
  全         342ページ
  発行所      文芸春秋社(文春文庫版)
  発刊       1983年    第1刷
  分類       アマゾンで購入。