2014年5月14日水曜日

児島襄著『東京裁判』=「勝者としての裁判」とデュ―プロセス

今日になっても、いまだに政府の閣僚らによる、靖国参拝が問題にされています。
この原因の多くは、東京裁判にあります。


また、この東京裁判が現在もなお、日本の国民の意識を縛っている、ように思えます。
しかし、この裁判がどういうものであったか、を知るには、膨大な量の書類に目を通す必要があります。(今日では、youtubeの映像もありますが)

とても、そんなことは出来ません。
それで、裁判の概略だけでも、と思い、読んでみることにしました。

(目次)
東条の自決          戦争犯罪の定義    起訴状の伝達
1946年5月3日        広田弘毅夫人の死   皇帝溥儀証言台へ
ウェッブとキーナンの対立  弁護団の反撃      南京虐殺事件
天皇の戦争責任       判決            DEAHT BY HANGING


東京裁判は、米軍総司令官としての大統領が設置を決め、関係連合国に参加を要請したものであった。だから、米英ソ仏などの連合軍が、合意のもとに開設したものではなかった。

そして、東京裁判は、完全にマッカーサ―の管轄化におかれた。
裁判長、主席検察官も、彼が任命した。

これより前に、「米国は、天皇を戦犯法廷に引き出さない方針を定めていた。」
だが、「少なくともオーストラリア、中国、ソ連、フィリピンは、なお天皇訴追の態度を軟化」させてはいなかった。

だから、主席検察官の任命は、重要な意味を持った。
もちろん、裁判長も、である。

裁判長の権限により、いかに裁判の審理が左右されるかは、「山下裁判」が証明済みであった。そして、東京裁判においても、それは変わらなかった。

それは、裁判管轄権についての、ブレイク二ー弁護人の「異議申し立て」についての、ウェッブ裁判長の言動に表れていた。

ブレイク二ー弁護人は、『・・・戦争はどんな戦争であれ、犯罪ではない、まして、戦争にともなう人命殺傷は犯罪者の殺人とは違う、検事側は、あたかも「戦勝国の殺人は合法的だが、敗戦国の殺人は非合法だ」と言うに等しいと強調した』

そして、「もし真珠湾空襲による被害が殺人行為であるならば、われわれは広島上空に原爆を投下した人物、この投下を計画した人物の名前を知っている。彼らも殺人者ではないか?」とのべた。

ブレイク二―弁護人の「異議申し立て」に対し、ウェッブ裁判長は、後刻裁定する旨を述べた。
そしてそれは、今日においても、なお、裁定が下されては、いない。


日本の神崎、清瀬弁護人は「戦争を起こしたのが犯罪だとしても、これは国家としての責任で・・・・個人の責任として関係者を処罰するのは、従来の国際法では考えられない…」と言う立場であった。

「・・国際裁判で、しかも戦勝国が敗戦国の責任者を裁くというのは、法律的にバカげた話…」である、との意見であった。

この方針の下に、奮闘した。


木戸は、「内大臣が無罪なれば陛下も無罪」と都留重人に諭され、木戸日記を差し出した。

それには、「・・・昭和5年10月28日、内大臣秘書官長に就任してからの、職務上得られた政治上の最高が記録されていた。・・・重要事件に際しての天皇の言動、重臣の活躍も描写し・・・昭和政治史の核心を知る貴重な資料・・・」であった。


最後に登場した、東条は、
「天皇の平和に対する希望に反した行動を木戸内大臣がとった事があるか」と聞かれ、「…私の知る限りにおいてありません。のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意志に反してかれこれするとういうことは、あり得ぬことであります。いわんや日本の高官においておや」
と述べた。

これは、キーナン主席検事をあわてさせた。
これでは、日本の国民は「天皇の意志に従って、戦争をはじめ、残虐な行為をした」ことになってしまう、からであった。

法廷は休廷に入り、東条への工作が始まった。
次の公判において、東条大将は、前言を取り消した。

やがて、東条大将は、全てを背負い、絞首台へと「登って」行った。

スミス弁護人は、一般動議を提出し、「全被告に共通した一般的理由として」、3点を指摘した。

① 「・・・協力、連携または謀議のうえ、検事側起訴状の55訴因で主張される罪を犯した者が存在するという事実の信憑すべき証拠は、ついに検事側から提出されなかった…」

 ② 「刑事司法の国際的典範、基準、または、道徳の国際的典範あるいは基準の中で、刑事裁判権ならびに刑罰権をともなうごとき法体系はかって存在せず、現在も存在していない。」

③ 「国際記事裁判所を設置し、もって個人または独立国家の刑事的もしくは道徳的行為を審理し、それに対し判決を下すがごときことを許容せる法体系は、存在しない」


東京裁判は勝者による敗者へ裁判であると言われた。
しかし、指名された米国の弁護人らの活躍は、目覚ましいものがあった。

時には、弱腰になる日本の弁護人を、叱咤激励するようなこともみられた。
これは「山下裁判」にみられた時と、同様な態度であった。

また、「山下裁判」の時と同じように、彼らは、米国の最高裁判所に訴願した。

最高裁は「・・軍事裁判所は、マッカーサ―元帥によって設立されたものだが、元帥は連合国の代理者としておこなったものである。従って、米国のいかなる裁判所もこれら訴願者にたいして下された判決及び宣告を、審査し、承認し、排除し、または無効とする権限を持たない」という決定を下した。

この最高裁の決定は、この法廷が、米国の大統領の権限で設立された軍事法廷にも関わらず、あたかも「連合国の代理人」として、この軍事法廷が開設されたかのように、「言い逃れ」をしている、と言えるであろう。

この本は、新書本として、上下2巻で、出された。
のちに、児島襄戦史著作集のうちの1巻として、出版された。

まえの部分の100ページほどは、実際の裁判に至るまでの経過について、述べている。
あとの250ページ余りで、裁判の内容などに触れている。

東京裁判は、起訴状によれば、1928年から1945年の間の「日本の戦争犯罪」について、裁くものであった。それは、言い換えれば、昭和20年までの、昭和の政治史を検証しようとする、ものでもある。

それを、250ページ余りに、まとめるということ自体が、至難の業であろう。
裁判は、2年間にわたり実施され、48、412ページに及ぶ供述書が受理された、という。

これだけを見ても如何に、膨大なものであったが、理解される。
とても、全てをカバーできるものではない、であろう。

だが、それを念頭に置いたとしても、この本は読む価値があった。


図書メモ
  全          346ページ
  発行所       文芸春秋
  発行         1979年  第1刷   (新書版=1971年)
  区分         アマゾンで購入

(2014年5月14日)