2014年5月8日木曜日

児島 襄著『天皇』第3巻・・・ 2・26事件、盧溝橋事件の頃

 この本は、昭和天皇の伝記であるが、この時代は、「天皇=国家」なので、天皇を扱うことは、政治史を扱うのと同じです。


この巻から、よく知られた事件・政治家の名前が、出てきます。
この巻では、盧溝橋事件以後の事が扱われています。
         *           *           *
ーー  主な内容  ーー

相沢事件・・・永田鉄山の暗殺。1935(昭和10)年10月。
その前夜…2・2前夜の動き。
2・26事件…陸軍の青年将校による反乱。1936年
蹶起者処刑…2・26事件の処理
倒閣抗争・・・林内閣への倒閣運動。1937年
盧溝橋事件…北京近郊の盧溝橋での暴発事件。1937年7月7日。
事変拡大・・・盧溝橋事件の拡大。日中両国、全面、戦争へ。
徐州作戦…盧溝橋事件が、徐州へ飛び火。1938年
ソ連軍進出・・・張鼓峰でソ連軍と衝突。1938年7月15日。
汪兆銘脱出…中国政府、ナンバー2の蒋介石への反旗。1938年12月。(青字は目次



児島によると、殺された永田鉄山自身、「軍部の改革」を志向していた、ようである。
だが、真崎元教育総監の「仇討」であったので、相沢中佐が、永田を殺害するのは避けられなかった、と書いている。

2・26事件は、全く、「寝耳に水」と言うようなものではなく、青年将校らは、料亭で飲んだりした時には「おれは、あれを殺る。俺は、こいつを殺やらせてくれ・・』などと、大声で話していた、という。

だから、警察や検察等は、「青年将校が事件を起こしそうだ」という情報をもっていた。
事実、磯部浅一には、「特高」が張り付いていた。

また、将校らの仲間たちも、彼ら青年将校に「やめろ、やめろ・・・」と、忠告していた、と児島は書く。

彼らが蹶起したのは、結局は「・・の日本の悪を斬る・・・・」ということに尽きる、という磯部の会話を、紹介する。

「あとの事」は、「天皇頼み」であった、ようである。
天皇のためにすることだから、「許してもらえるだろう」と考えていた、ようだ。

だが、彼らが、、政治家らを殺戮する理由を、「統帥権の干犯」に求めるのなら、彼らの行動も「統帥権の干犯」にあたることまでは、意識されていなかった、と思われる。

あるいは、「我々は、天皇のため、国家のため」に、昭和維新を断行する、のだから、「許される」という意識が働いていた、のであろうか。


国民の多くは、彼らに、喝采を送った。
「炊き出し」をしたり「酒をふるまったり」して、彼らを激励した。

しかし、天皇は、戒厳令を布くことを命令し「徹底的に始末せよ。戒厳令を悪用することなかれ」と、参謀本部に伝えた。

天皇の怒りは、これまでになく「激し」かった。
少しでも早い鎮圧を、何度も、催促した。

天皇は、事件が解決して、「世の中が静かになる」ことを願ったが、この事件を契機に、かえって、政党の力が弱まり、軍部の力が増した。

元々、軍部の政府への不満が、事件の底に存在していたからである。
この事件以後、軍部による政府が、続いた。

彼(事件を起こした)ら、青年将校の意図とは違い、増々「国民は塗炭の苦しみ」にあえぐことになる。
国土は、増々荒廃し、多くの国民の生命が、失われることになる。

2・26事件の1年半後に、盧溝橋事件が起きる。
その時は、もうだれにも止める事が出来なくなっていた。

政府は、一度は「不拡大方針を固めた。
停戦協定も成立した。

しかし、停戦後も、現地では、日中の「小競り合い」が絶えず、ついに、全面戦争に突入することを決定した。

天皇も初めは、ソ連が参戦してくることを心配して、「不拡大方針」を支持した。

しかし、中国との日華平和会談が開かれることが決定した、数日前に、南京での戦闘が始まっていた。

参謀本部が、松井大将に「南京攻略」を許可していた、からであった。


戦闘はこう着状態に入ったが、近衛の「蒋介石を相手にせず」と宣言があり、停戦、講和の機会は失われた。

しかし、蒋介石を相手にせず、誰を相手にする、というのか。
政府は、そこで、中国政府、ナンバー2の汪兆銘に目を付けた。

だが、所詮、中国は、蒋介石のものであった。
蒋介石が健在である限り、戦争は終わらないことは、軍部も良く分っていた。(8)

図書メモ :
                            
著者        児島 襄 
全         334ページ
発行所      文芸春秋 
発刊       1974年    第1刷    
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