2014年5月25日日曜日

小泉元首相より発言より、読売新聞の社説こそ「見識を欠く」

米国と違って、日本における首相経験者への扱いは、格段に低い。
それは、今回の小泉元首相の発言に対する読売新聞の社説に、典型的に表れている。


社説は以下のように言う。

 【小泉元首相が講演で、「原子力発電に依存しない、自然を資源にした循環型社会」の実現を唱え、政府に対し、「原発ゼロ」の方針を掲げるよう求めた。東日本大震災を機に自らの考えを変えたという。】

これに対し、社説は続けて、

 「小泉氏の発言は、政府・自民党の方針と異なる。政界を引退したとはいえ、看過できない」
という。

仮にも、一国の総理経験者であり、同時に政権政党の代表者の地位にあったのだ。
その発言は、もっと重要視されていい。

むしろ、安倍首相は、総理経験者・元自民党総裁である小泉氏に、助言を求めるぐらいのことがあってもよかったのではないか。

反対意見に耳を傾けるというのが、民主主義の基本だろう。
だが、そうはいっても、対立する政党であれば、難しかろう。

その点、小泉氏は、自民党の代表者の地位にあったのだから、そういうこともなかろう。
真摯に耳を傾けることの出来る相手ではないか。

小泉氏が自らの考えを変えたのは、社説が取り上げている講演会よりずっと前のことである。

そのことは、マスコミが早くに報じていた。
小泉氏に、その真意を確かめ、意見を聞くだけの時間は十分にあった。
 
   ◆             ◆             ◆

だが、このことと読売の社説の論説とは別である。
大新聞である読売新聞が、このように言うのは、いくら「言論の自由」があるとはいえ、やはり問題だろう。

首相経験者は、政界を引退しても、元の所属の政党の方針に対し、異を唱えてはいけない、などということがあろうはずがない。

いつまでも、元の政党に忠誠を尽くすことが求められる、などというのは人権の侵害も甚だしい。

まして、報道機関が言うべきことではない。
「看過できない」のは、小泉氏の発言より、むしろ、読売新聞の社説である。

また、原発を進める理由も従来から言われていることであり、すでに多くに人が、その正当性に疑問を呈している。

以前より社説で、国民の被ばく限度の1ミリシーベルトの撤廃を言っていたから、このような社説が出されても驚きはしない。

しかし、これでは、ますます、新聞の権威は低下することであろう。
もしかすると、もうすでに「地に落ちている」のかもしれない。

このような社説を、国民は、とうてい、まともなものとは思わないであろう。
これは、小泉氏の「見識のなさ」を表しているというより、読売新聞のそれを示すものであるからだ。

それは、今の東電の事故現場の惨状を考えただけでも、よくわかることだ。
「政府が前面に出る」と大見得を切った後の、東電の汚染水対策の杜撰さは、どうだ。

一日として、対応の不手際が、マスコミによって報じられない日はない。
それも、初歩的なミスばかりだ。

こんなミスを何度も繰り返しているのに、まだ原発を再稼働し、再び事故が起きたらどうする。


読売新聞のこの社説は、小泉氏の発言を隠れ蓑にして、自社の持論(原発推進)を言っているものである、と思う。

原発の推進が、日本の国民の平和と安全と財産を守ることになると思うのなら、このような姑息なやり方をやめ、堂々と、論陣を張ればいい。

このようなやり方には、国民はもう騙されはしないのである。

2013-10-08 13:04:15