1937年から1945年を扱う。
いわゆる盧溝橋事件以後、終戦までである。
実質的な戦闘は、1938年の10月の漢口陥落で終了した。
従って、この本での戦史の記述は、440ページあたりで、終了した、といってよい。
だが、依然として、中国本土(満州を除く)には、約85万人の日本軍の兵隊が「張り付い」たままであった。
児島は、この本の最後で、日中戦争は、
そして、「戦場を染める両国民の流血の量が多いだけに、この「日中戦争」の歩みには、耐えきれぬ口惜しさをさそわれてならない」と結んでいる。
要するに、児島は、「(両国の)戦争指導者が真剣に戦争をしなかったこと」がこの戦争(日中戦争)を長引かせた原因である、と観ている。
*
1937年7月7日
北京のすぐ近くの盧溝橋で、突発的な事故が起きた。
空砲を使い、「敵と味方に分かれて」演習中の、日本軍の兵隊の頭の上を、十数発の実弾が通過した。
これが、盧溝橋事件のはじまり、である。
事件の連絡を受けた時の反応。
外務省の石射局長の反応
「とうとう始まったね」
「大きくならなければ良いが・・・・」
参謀本部第二課(戦争指導)長、河辺大佐の反応
「厄介な事がおこったな」
参謀本部第三課(作戦・編成・動員)長・武藤大佐の反応は。
「愉快な事が起こったね」であった。
東京の作戦本部は、いち早く「不拡大」方針を決めた。
一方の、これまで、ひたすらに戦争を避けてきた蒋介石は、「戦争」を決意した。
しかし、結局この「不拡大」方針は、徹底を欠いた。
上に、1報を受けた時の参謀本部の課長の反応を示したように、この方針は、賛成と反対が、半々であったからである。
以後、事件は、拡大する一方となった。
それは、まるで、「ブレーキを無くした」機関車の如くであった。
戦火は、北京、上海、徐州、開封、南京へと拡大していった。
さらに,漢口まで伸びた。
「
「漢口を落せば、戦争が終わる」と信じた日本の参謀本部の考えに反して、漢口が落とされると考えた蒋介石は、いち早く重慶に逃げた。
日本なら、東京が焼野原になり、皇居が焼ければ、戦意をなくしたであろう。
だから、中国人も同じように考えている」と、思ったのであろうか。
だが、三国志などの映画を見ても解るように、中国人に「首都」という意識はない。
皇帝(支配者)がいる場所が、どこでも「首都」に成り得た。
だから、漢口を落しても、戦争が終わる事はなかった。
蒋介石は、初めから「やがて、日本軍は、米英と戦争になり、日本軍は負ける。結果、中国は解放される」と見通していた、からであった。
ひたすらに、日本が米英と戦う時期が来るのを、待ち望んでいたのであった。
*
日本軍は、ついに、香港の広州にまで、軍隊を進めた。
それでも、日本軍は、蒋介石を敗北に追いやることが出来ずに、(戦争を終わらすことが出来ず)活路を、南方に求めた。
即ち、、マレー、シンガポール、フィリピン、インドシナ、方面。
当時は、これらの国々は、米国、英国、オランダの植民地であった。
だから、米国、英国、オランダとの戦争に突入することになるのは、必然であった。
*
この戦争で、「南京における「大虐殺があった」とされる。
この事について、詳細な検討をしたあとで、
「・・・以上「安全区」委員会の記録に照合すると、増々「南京虐殺」に実態は把握い難くなる…」と記述する。
だが、以下のようなことも付け加えている。
漢口作戦の時の事である。
漢口進入に関する命令「中支作命甲第百二十五号」には、『…特に南京における「不祥事」の再発を防止するための「軍参謀長ノ指示」「軍参謀長の注意事項」が付随していた・・』。
第11軍司令部「機密作戦日誌」と取り上げ、「・・・南京城進入の無統制に起因し、侵入後幾多ノの不祥事を発生せしめ樽に苦き経験に鑑み・・・」と書ていることを、指摘する。
また、『「軍参謀長に指示」は・・略奪、放火、強姦」については、侵入後よりも「若干日経過した」後に発生しやすい点を指摘し・・・」と同じように、「南京での虐殺の実体」を思わせる、「指示」についても、言及する。
だが、本来、南京は攻める必要のなかった都市であった。
いち早く、蒋介石は、南京から撤退することを表明していた、からである。
そして当時、日本軍は、中国軍の情報を傍受しており、暗号も解読していた。
すでに、南京は、中国軍はほとんど撤退した後で在り、「もぬけの殻」に等しかった、のであった。
★図書メモ
著者 児島 襄
全 614ページ
発行所 文芸春秋
発刊 1984年 第2刷
区分 アマゾンで、「古書」として購入
いわゆる盧溝橋事件以後、終戦までである。
実質的な戦闘は、1938年の10月の漢口陥落で終了した。
従って、この本での戦史の記述は、440ページあたりで、終了した、といってよい。
だが、依然として、中国本土(満州を除く)には、約85万人の日本軍の兵隊が「張り付い」たままであった。
児島は、この本の最後で、日中戦争は、
『…双方の「自ら足をひっぱる形の談判と無策」が戦闘を生みつづけた、と の印象が強い。日本は満州に進み、長城をこえ、黄河をこえ、揚子江をこえ、珠江(西江)もこえた。
その度に日本側にみられるのは、人が変われば政策も戦力も変わるというのみで、判断のない決意、決意のない決心、決心にない行動の連続である。
・・中国側にも、・・内部分裂による国家の意志と政策の不統一、民心の低さと旧習に絡まれた弱点が目立つ。
というような戦争であった、と書く。くり返してこころみられた和平工作も、結局は双方の勝者の立場を望む自意識過剰、国際性の欠如などが、成功を妨げている・・・」
そして、「戦場を染める両国民の流血の量が多いだけに、この「日中戦争」の歩みには、耐えきれぬ口惜しさをさそわれてならない」と結んでいる。
要するに、児島は、「(両国の)戦争指導者が真剣に戦争をしなかったこと」がこの戦争(日中戦争)を長引かせた原因である、と観ている。
*
1937年7月7日
北京のすぐ近くの盧溝橋で、突発的な事故が起きた。
空砲を使い、「敵と味方に分かれて」演習中の、日本軍の兵隊の頭の上を、十数発の実弾が通過した。
これが、盧溝橋事件のはじまり、である。
事件の連絡を受けた時の反応。
外務省の石射局長の反応
「とうとう始まったね」
「大きくならなければ良いが・・・・」
参謀本部第二課(戦争指導)長、河辺大佐の反応
「厄介な事がおこったな」
参謀本部第三課(作戦・編成・動員)長・武藤大佐の反応は。
「愉快な事が起こったね」であった。
東京の作戦本部は、いち早く「不拡大」方針を決めた。
一方の、これまで、ひたすらに戦争を避けてきた蒋介石は、「戦争」を決意した。
しかし、結局この「不拡大」方針は、徹底を欠いた。
上に、1報を受けた時の参謀本部の課長の反応を示したように、この方針は、賛成と反対が、半々であったからである。
以後、事件は、拡大する一方となった。
それは、まるで、「ブレーキを無くした」機関車の如くであった。
戦火は、北京、上海、徐州、開封、南京へと拡大していった。
さらに,漢口まで伸びた。
「
「漢口を落せば、戦争が終わる」と信じた日本の参謀本部の考えに反して、漢口が落とされると考えた蒋介石は、いち早く重慶に逃げた。
日本なら、東京が焼野原になり、皇居が焼ければ、戦意をなくしたであろう。
だから、中国人も同じように考えている」と、思ったのであろうか。
だが、三国志などの映画を見ても解るように、中国人に「首都」という意識はない。
皇帝(支配者)がいる場所が、どこでも「首都」に成り得た。
だから、漢口を落しても、戦争が終わる事はなかった。
蒋介石は、初めから「やがて、日本軍は、米英と戦争になり、日本軍は負ける。結果、中国は解放される」と見通していた、からであった。
ひたすらに、日本が米英と戦う時期が来るのを、待ち望んでいたのであった。
*
日本軍は、ついに、香港の広州にまで、軍隊を進めた。
それでも、日本軍は、蒋介石を敗北に追いやることが出来ずに、(戦争を終わらすことが出来ず)活路を、南方に求めた。
即ち、、マレー、シンガポール、フィリピン、インドシナ、方面。
当時は、これらの国々は、米国、英国、オランダの植民地であった。
だから、米国、英国、オランダとの戦争に突入することになるのは、必然であった。
*
この戦争で、「南京における「大虐殺があった」とされる。
この事について、詳細な検討をしたあとで、
「・・・以上「安全区」委員会の記録に照合すると、増々「南京虐殺」に実態は把握い難くなる…」と記述する。
漢口作戦の時の事である。
漢口進入に関する命令「中支作命甲第百二十五号」には、『…特に南京における「不祥事」の再発を防止するための「軍参謀長ノ指示」「軍参謀長の注意事項」が付随していた・・』。
第11軍司令部「機密作戦日誌」と取り上げ、「・・・南京城進入の無統制に起因し、侵入後幾多ノの不祥事を発生せしめ樽に苦き経験に鑑み・・・」と書ていることを、指摘する。
また、『「軍参謀長に指示」は・・略奪、放火、強姦」については、侵入後よりも「若干日経過した」後に発生しやすい点を指摘し・・・」と同じように、「南京での虐殺の実体」を思わせる、「指示」についても、言及する。
だが、本来、南京は攻める必要のなかった都市であった。
いち早く、蒋介石は、南京から撤退することを表明していた、からである。
そして当時、日本軍は、中国軍の情報を傍受しており、暗号も解読していた。
すでに、南京は、中国軍はほとんど撤退した後で在り、「もぬけの殻」に等しかった、のであった。
★図書メモ
著者 児島 襄
全 614ページ
発行所 文芸春秋
発刊 1984年 第2刷
区分 アマゾンで、「古書」として購入