『天皇』の最後の巻です。
敗戦に次ぐ敗戦の状況下の日本軍が、描かれています。
それにしても、いつまでも決定を下すことが出来ず、ズルズルと戦争を引き伸ばし、あげくの果てには、ソ連に仲介を求めるなど、日本政府の混乱状況は、目を覆うものがあります。
戦争を始める前に、講和の準備をしていた日露戦争との違いを考えると、時代が進んでも、それに伴って人間の意識までは、進むとは言えない、ことがよく理解できました。
*
≪目次≫
天皇と東條英機 アッツとキスカ 中野正剛自決
タワラの戦い 統帥権をめぐって サイパン失陥
東條内閣総辞職 レイテ決戦 最後の組閣
終戦への歩み ポツダム宣言帝国の終焉
*
戦争の経過の要点。
山本長官の死。1943年4月18日。
千島列島のアッツ島、放棄決定。
部隊は、孤立無援後とされ、全滅する。
その後、キスカ島については、撤収が成功した。
米軍の「カエルとび作戦」がはじまる。
日本の本土空襲への道を切り開く、ものであった。
1943年11月25日、ギルバート諸島のタワラの日本軍が、全滅する。
1944年2月1日には、米軍が、マーシャル群島に上陸。
続いて、マリアナ諸島のサイパンへ、6月15日に上陸。
その後、7月6日には、日本軍が全滅した。
この戦闘で、日本軍は、大半の空母を失った。
この戦闘で、海軍は、戦争を継続する能力を、ほぼ無くした、ことになった。
7月21日、米軍がグアム島に、上陸。9月27、日本軍が全滅。
続いて、10月20日、米軍がレイテ島に上陸。フィリピン戦が始まる。
11月24日、B29による東京空襲が始まる。
以後、東京や日本の主要都市が、空襲を受ける。
1945年2月19日、米軍が硫黄島に上陸。3月1日、日本軍が全滅。
4月1日、米軍が沖縄に上陸。6月23日、沖縄の日本軍、全滅。
5月9日、ドイツが降伏。
8月6日、広島に原爆が落とされる。
8月8日、ソ連軍、満州に攻め入る。
8月9日、長崎に原爆が落とされる。
8月15日、天皇、ラジオ放送で「日本の敗戦」を国民に知らせる。
9月2日、降伏の調印をする。終戦。
*
この間の国内の動きと問題点。
中野正剛代議士、「謀略]の疑惑により逮捕。解放後、自宅にて、自決する。
東條、陸軍と海軍の、軍政と統帥事項の統合を行う。
しかし、この陸軍と海軍を統合しても、総合的な判断を下す最高責任者が存在しない、という欠点を解消することは出来ない。
それが出来るのは、天皇だけである。
が、憲法上、その形式上は、天皇は、内閣の輔弼を受けて、裁可をすることになっており、「国政への責任」を有しない。
総理大臣も、憲法上は、「法的な存在」からはずれていたから、誰も、「責任ある立場に立つ人間」がいなかった。
この事が、これ以後、米軍が有利に立ち、日本軍の戦況が悪化してくるにもかかわらず、いつまでも、戦争をやめることが出来ない、原因であった。
*
1943年の終わりごろには、国民の「天皇を誹謗する」ような声が高まって来た。
生活の苦しさなどから、それはやがて、天皇への怨嗟の声になっていった。
これは、その後、1944年の11月24日の、米軍のB29による東京空襲の始まり以後は、もっと大きくなっていった。
翌年にも、2月、3月と東京空襲を受けた。
特に、3月10日の空襲では、東京の下町一帯が、焼野原となった。
もはや、政府や新聞、ラジオの発表が、「まやかし」であることを、国民の多くが知る所となった。
天皇は、空襲で焼け野原になった現地を視察したが、[黒こげになった死体」はかたずけられており、惨状を見る事はなかった。
この惨状(かたずけられていない多くの死体)を、見れば、天皇も、もっと早くに、「終戦」を決意してたのではないか、と思われた。
天皇の感想は「・・・これで東京も焼野原になったね」であった。
5月24日と25日には再び,B29が東京を空襲した。
合計1000機に及ぶ航空機が飛来した。
東京は、かって、山本大将が予想した通りの惨状に見舞われた。
やがて、5月に降伏した。
ドイツが英国に勝利することを「当て」にして、戦争を始めた日本であったが、ドイツが負けた後も、戦争をやめようとはしなかった。
そして、いよいよダメと解ると、ソ連に助けを求めようとした。
日本への進出を目論んでいたソ連は、「和平を仲介」する気持ちは、初めから、なかった。
「のらりくらり」として、態度をはっきりさせなかった。
また、天皇の親書も、(日本は)米英が無条件降伏に固執する限りは、戦うほかなく「…人類の幸福のため・・・」に和平の仲介を希望する、と言う内容であった。
7月19日、ソ連にいる佐藤大使は、ソ連の仲介は望めない。
そして、最早、国体護持を条件に、降伏するよりほかなし、と打電してきた。
日本は、そのすぐ後の、7月27日に、日本はポツダム宣言が出たことを知ったが、これを「無視」することにした。
この宣言をめぐって、またも、政府も軍部も、紛糾する、ことになる。
結局は、原子爆弾とソ連の参戦がこれに解決を与えることになった。
*
この5巻の「長い物語」を読んで思うのは、天皇の「地位の曖昧さ」の事である。
天皇を、「神聖にして犯すべからず」と規定しておきながら、「国務大臣の輔弼を受けて」政治をおこなうが、「その責任は輔弼した国務大臣」がとる、ときめたことにある、と言う気がする。
「神聖にして犯す」事の出来ない「絶対的な存在」の天皇でありながら、「臣下」の進言によらなければ、「決定を下すこと」が出来ないなら、「絶対的」とはいえないであろう。
もちろん、天皇は「憲法によりて」統治を行うのであるから、大臣による「輔弼」までを規定する必要はなかった、と思う。
「法的な責任」から、自由であるようにしたかったのであれば、「憲法上の規定」は作るべきではなかった、と思う。
天皇という「超法規的」でありながら、「法規的」でもある、という二面性を有する「矛盾する存在」が、全てにおいて、問題の解決を、困難にした、ともいえる。
図書メモ :
著者 児島 襄
全 458ページ
発行所 文芸春秋
発刊 1974年 第1刷
区分 アマゾンで、「古書」として購入
敗戦に次ぐ敗戦の状況下の日本軍が、描かれています。
それにしても、いつまでも決定を下すことが出来ず、ズルズルと戦争を引き伸ばし、あげくの果てには、ソ連に仲介を求めるなど、日本政府の混乱状況は、目を覆うものがあります。
戦争を始める前に、講和の準備をしていた日露戦争との違いを考えると、時代が進んでも、それに伴って人間の意識までは、進むとは言えない、ことがよく理解できました。
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≪目次≫
天皇と東條英機 アッツとキスカ 中野正剛自決
タワラの戦い 統帥権をめぐって サイパン失陥
東條内閣総辞職 レイテ決戦 最後の組閣
終戦への歩み ポツダム宣言帝国の終焉
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戦争の経過の要点。
山本長官の死。1943年4月18日。
千島列島のアッツ島、放棄決定。
部隊は、孤立無援後とされ、全滅する。
その後、キスカ島については、撤収が成功した。
米軍の「カエルとび作戦」がはじまる。
日本の本土空襲への道を切り開く、ものであった。
1943年11月25日、ギルバート諸島のタワラの日本軍が、全滅する。
1944年2月1日には、米軍が、マーシャル群島に上陸。
続いて、マリアナ諸島のサイパンへ、6月15日に上陸。
その後、7月6日には、日本軍が全滅した。
この戦闘で、日本軍は、大半の空母を失った。
この戦闘で、海軍は、戦争を継続する能力を、ほぼ無くした、ことになった。
7月21日、米軍がグアム島に、上陸。9月27、日本軍が全滅。
続いて、10月20日、米軍がレイテ島に上陸。フィリピン戦が始まる。
11月24日、B29による東京空襲が始まる。
以後、東京や日本の主要都市が、空襲を受ける。
1945年2月19日、米軍が硫黄島に上陸。3月1日、日本軍が全滅。
4月1日、米軍が沖縄に上陸。6月23日、沖縄の日本軍、全滅。
5月9日、ドイツが降伏。
8月6日、広島に原爆が落とされる。
8月8日、ソ連軍、満州に攻め入る。
8月9日、長崎に原爆が落とされる。
8月15日、天皇、ラジオ放送で「日本の敗戦」を国民に知らせる。
9月2日、降伏の調印をする。終戦。
*
この間の国内の動きと問題点。
中野正剛代議士、「謀略]の疑惑により逮捕。解放後、自宅にて、自決する。
東條、陸軍と海軍の、軍政と統帥事項の統合を行う。
しかし、この陸軍と海軍を統合しても、総合的な判断を下す最高責任者が存在しない、という欠点を解消することは出来ない。
それが出来るのは、天皇だけである。
が、憲法上、その形式上は、天皇は、内閣の輔弼を受けて、裁可をすることになっており、「国政への責任」を有しない。
総理大臣も、憲法上は、「法的な存在」からはずれていたから、誰も、「責任ある立場に立つ人間」がいなかった。
この事が、これ以後、米軍が有利に立ち、日本軍の戦況が悪化してくるにもかかわらず、いつまでも、戦争をやめることが出来ない、原因であった。
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1943年の終わりごろには、国民の「天皇を誹謗する」ような声が高まって来た。
生活の苦しさなどから、それはやがて、天皇への怨嗟の声になっていった。
これは、その後、1944年の11月24日の、米軍のB29による東京空襲の始まり以後は、もっと大きくなっていった。
翌年にも、2月、3月と東京空襲を受けた。
特に、3月10日の空襲では、東京の下町一帯が、焼野原となった。
もはや、政府や新聞、ラジオの発表が、「まやかし」であることを、国民の多くが知る所となった。
天皇は、空襲で焼け野原になった現地を視察したが、[黒こげになった死体」はかたずけられており、惨状を見る事はなかった。
この惨状(かたずけられていない多くの死体)を、見れば、天皇も、もっと早くに、「終戦」を決意してたのではないか、と思われた。
天皇の感想は「・・・これで東京も焼野原になったね」であった。
5月24日と25日には再び,B29が東京を空襲した。
合計1000機に及ぶ航空機が飛来した。
東京は、かって、山本大将が予想した通りの惨状に見舞われた。
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ドイツは、ソ連進攻に失敗した。やがて、5月に降伏した。
ドイツが英国に勝利することを「当て」にして、戦争を始めた日本であったが、ドイツが負けた後も、戦争をやめようとはしなかった。
そして、いよいよダメと解ると、ソ連に助けを求めようとした。
日本への進出を目論んでいたソ連は、「和平を仲介」する気持ちは、初めから、なかった。
「のらりくらり」として、態度をはっきりさせなかった。
また、天皇の親書も、(日本は)米英が無条件降伏に固執する限りは、戦うほかなく「…人類の幸福のため・・・」に和平の仲介を希望する、と言う内容であった。
7月19日、ソ連にいる佐藤大使は、ソ連の仲介は望めない。
そして、最早、国体護持を条件に、降伏するよりほかなし、と打電してきた。
日本は、そのすぐ後の、7月27日に、日本はポツダム宣言が出たことを知ったが、これを「無視」することにした。
この宣言をめぐって、またも、政府も軍部も、紛糾する、ことになる。
結局は、原子爆弾とソ連の参戦がこれに解決を与えることになった。
*
この5巻の「長い物語」を読んで思うのは、天皇の「地位の曖昧さ」の事である。
天皇を、「神聖にして犯すべからず」と規定しておきながら、「国務大臣の輔弼を受けて」政治をおこなうが、「その責任は輔弼した国務大臣」がとる、ときめたことにある、と言う気がする。
「神聖にして犯す」事の出来ない「絶対的な存在」の天皇でありながら、「臣下」の進言によらなければ、「決定を下すこと」が出来ないなら、「絶対的」とはいえないであろう。
もちろん、天皇は「憲法によりて」統治を行うのであるから、大臣による「輔弼」までを規定する必要はなかった、と思う。
「法的な責任」から、自由であるようにしたかったのであれば、「憲法上の規定」は作るべきではなかった、と思う。
天皇という「超法規的」でありながら、「法規的」でもある、という二面性を有する「矛盾する存在」が、全てにおいて、問題の解決を、困難にした、ともいえる。
図書メモ :
著者 児島 襄
全 458ページ
発行所 文芸春秋
発刊 1974年 第1刷
区分 アマゾンで、「古書」として購入