原題は、『 THE CASE OF GENERAL YAMASITA 』です。
この本は、1949年に米国で出されましたが、日本はその当時、まだ米軍により占領中でしたので、翻訳して出版する事が許されませんでした。
したがって、この本の翻訳本が出されたのは、1952年です。
発行所は、日本経文社。定価は、190円。
上巻が212ページ、下巻が240ページの分量です。
現在、絶版。文庫本もなし。
*
これは、ドイツにおける裁判にさきだって、連合軍が初めて「戦犯」を裁いた裁判でした。
裁かれた人の名は、山下奉文(ともゆき)。
別名、マレーの虎。
彼は、太平洋戦争の初戦において、「マレー戦」を指揮しました。
この戦いの勝利により、山下大将は、一躍日本中の英雄となりましたが、昭和天皇には、不興でした。
それは、「2・26事件」の際に、事件を起こした北進派(皇道派)の将校らに、同情的であったから、とされています。
華々しい戦果を挙げたにもかかわらず、天皇に拝謁を許されず、満州に左遷されます。
ところが、1944年10月になって、敗戦が濃厚になってきた時に、突然また、マニラに呼びもどされます。
そこで状況が不利と見た、山下大将は、マニラ市民を戦禍に巻き込むことを避けるため、山中に後退します。
当時、マニラ市内には、約70万もの市民が残っていたのです。
ところが、大本営はマニラの放棄に同意しませんでした。
特に、第4航空軍の、富永恭次陸軍中将は、強行にマニラ死守を主張し、結局、無防都市宣言は行われませんでした。
戦いが始まると、米軍は、空と、艦船から猛烈な爆撃をしました。これにより、マニラ市内は壊滅します。
市民の死者は、約10万人。
ほとんどは、この爆撃により犠牲になった、と思われます。
が、この時、マニラ市中に取り残された日本軍の兵士らが、残虐な行為をした、として、戦後、山下大将は、「戦争犯罪人」として裁かれることに、なったのでした。
当時、日本軍の連絡網は、完全に断たれ、山下大将は、なすすべがなかったのでした。
それでも、部下の指揮を執ることを十分に果たさず、結果として、部下の残虐な行為を止めることをしなかった、とされ、裁かれたのです。
*
裁判で、弁護人のひとりに、フランク・リール(この本の著者)がいました。
この裁判の正当性に疑問を感じた彼は、マニラの軍事法廷において死刑判決が下された後にも、諦めず(驚くべきことに)米国の最高裁判所に提訴しました。
最高裁判所は、この提訴を退けましたが、二人の最高裁の判事が、反対意見を述べました。
フランク・リールは、以下のように言います。
「私たちは、山下大将は為すべからざることを為したからではなく、あるいは為すことが出来たことを為さなかったからでもなくて、単に、彼がおえら方であったために、罪人であるというのと同じだと思った。
…我々は他のものが犯した罪状故に、人々を絞首刑に処するようなことはしない。
又、国際法の記録にも、そのような起訴の前例はない。同じような起訴で、法廷で有罪を宣告された軍人はかって存在したためしがない。そこで、私たちは、これだけだとすると、山下大将は一つも犯罪を犯していないことになると思った。起訴状は、彼によってなされた戦争法違反行為を、一つも申し立てていない。彼を裁く必要さえない」
(なお、翻訳の原文は、旧漢字なので、新漢字に直してあります)
また、米国の最高裁判所の判事である、マーフィ氏は、反対意見として、次のように言います。
「しかし、静かな残照の中で、人々は、今日、是認された処置の無限に危険な含蓄を自覚するに違いない。曹長から大将に至るまで、およそ、軍隊にあって指揮の任に当たる所のものは、何人と言えども、これらの含蓄からのがれることはできない。
実に、いつの日か、将来の合衆国の大統領及びその参謀長、軍事顧問たちの運命は、この決定よって、運命づけられているかもしれない。・・・我々は、この法廷で、人間の権利を国際的水準で処理しているのであるから、この場合、その影響は、不幸にして無限に拡大されるであろう」
もう一人の反対意見を述べた、ラトレッジ氏も言います。
「…慣習法の伝統と憲法にてらして、これは裁判ではなかったということを示すのには十分である。軍事法廷そのものは、その他の点で、慣習法の伝統や憲法に前例がなくはないとするも、それは手続きの形式ならびに方式、それが受理した証拠の性格と実体、被告及び弁護人に対する証拠検証のあらゆる手段の拒否、そのような莫大な材料に基づくその判決の短さと曖昧さ、及び(この先で取り上げるが)弁護準備の正当な機会を与えなかったこと等において先例がない。
…・これらすべての伝統を、そのように(合法であると=投稿者)片づける事が出来るならば、実に、我々は新しい、しかし、空恐ろしい法律の世紀に足をふみ入れたのであろう。
・・・・基本的権利の他の拒否を加えるならば、それは、裁判から、我々が知る一切の裁判らしいものを奪った」
その結果、1946年2月23日午前3時、山下大将は、絞殺されました。
*
本文は、旧漢字であり、また、法律における技術的な内容も多く含むので、読み通すこと自体、「大変」ですが、著者の意気込みにつられて、何とか最後まで読み通せました。
この裁判は、人類史の中での最初の「戦争犯罪者」を裁くことになったものです。
また、今日、中国、韓国による「戦後補償」として戦争責任が、問われ続けている中において、
特に、重要な文献である、と言えると思います。
(参考にしたサイト)
山下奉文(ともゆき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87
マニラ戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1945%E5%B9%B4)
(改題)
この本は、1949年に米国で出されましたが、日本はその当時、まだ米軍により占領中でしたので、翻訳して出版する事が許されませんでした。
したがって、この本の翻訳本が出されたのは、1952年です。
発行所は、日本経文社。定価は、190円。
上巻が212ページ、下巻が240ページの分量です。
現在、絶版。文庫本もなし。
*
これは、ドイツにおける裁判にさきだって、連合軍が初めて「戦犯」を裁いた裁判でした。
裁かれた人の名は、山下奉文(ともゆき)。
別名、マレーの虎。
彼は、太平洋戦争の初戦において、「マレー戦」を指揮しました。
この戦いの勝利により、山下大将は、一躍日本中の英雄となりましたが、昭和天皇には、不興でした。
それは、「2・26事件」の際に、事件を起こした北進派(皇道派)の将校らに、同情的であったから、とされています。
華々しい戦果を挙げたにもかかわらず、天皇に拝謁を許されず、満州に左遷されます。
ところが、1944年10月になって、敗戦が濃厚になってきた時に、突然また、マニラに呼びもどされます。
そこで状況が不利と見た、山下大将は、マニラ市民を戦禍に巻き込むことを避けるため、山中に後退します。
当時、マニラ市内には、約70万もの市民が残っていたのです。
ところが、大本営はマニラの放棄に同意しませんでした。
特に、第4航空軍の、富永恭次陸軍中将は、強行にマニラ死守を主張し、結局、無防都市宣言は行われませんでした。
戦いが始まると、米軍は、空と、艦船から猛烈な爆撃をしました。これにより、マニラ市内は壊滅します。
市民の死者は、約10万人。
ほとんどは、この爆撃により犠牲になった、と思われます。
が、この時、マニラ市中に取り残された日本軍の兵士らが、残虐な行為をした、として、戦後、山下大将は、「戦争犯罪人」として裁かれることに、なったのでした。
当時、日本軍の連絡網は、完全に断たれ、山下大将は、なすすべがなかったのでした。
それでも、部下の指揮を執ることを十分に果たさず、結果として、部下の残虐な行為を止めることをしなかった、とされ、裁かれたのです。
*
裁判で、弁護人のひとりに、フランク・リール(この本の著者)がいました。
この裁判の正当性に疑問を感じた彼は、マニラの軍事法廷において死刑判決が下された後にも、諦めず(驚くべきことに)米国の最高裁判所に提訴しました。
最高裁判所は、この提訴を退けましたが、二人の最高裁の判事が、反対意見を述べました。
フランク・リールは、以下のように言います。
「私たちは、山下大将は為すべからざることを為したからではなく、あるいは為すことが出来たことを為さなかったからでもなくて、単に、彼がおえら方であったために、罪人であるというのと同じだと思った。
…我々は他のものが犯した罪状故に、人々を絞首刑に処するようなことはしない。
又、国際法の記録にも、そのような起訴の前例はない。同じような起訴で、法廷で有罪を宣告された軍人はかって存在したためしがない。そこで、私たちは、これだけだとすると、山下大将は一つも犯罪を犯していないことになると思った。起訴状は、彼によってなされた戦争法違反行為を、一つも申し立てていない。彼を裁く必要さえない」
(なお、翻訳の原文は、旧漢字なので、新漢字に直してあります)
また、米国の最高裁判所の判事である、マーフィ氏は、反対意見として、次のように言います。
「しかし、静かな残照の中で、人々は、今日、是認された処置の無限に危険な含蓄を自覚するに違いない。曹長から大将に至るまで、およそ、軍隊にあって指揮の任に当たる所のものは、何人と言えども、これらの含蓄からのがれることはできない。
実に、いつの日か、将来の合衆国の大統領及びその参謀長、軍事顧問たちの運命は、この決定よって、運命づけられているかもしれない。・・・我々は、この法廷で、人間の権利を国際的水準で処理しているのであるから、この場合、その影響は、不幸にして無限に拡大されるであろう」
もう一人の反対意見を述べた、ラトレッジ氏も言います。
「…慣習法の伝統と憲法にてらして、これは裁判ではなかったということを示すのには十分である。軍事法廷そのものは、その他の点で、慣習法の伝統や憲法に前例がなくはないとするも、それは手続きの形式ならびに方式、それが受理した証拠の性格と実体、被告及び弁護人に対する証拠検証のあらゆる手段の拒否、そのような莫大な材料に基づくその判決の短さと曖昧さ、及び(この先で取り上げるが)弁護準備の正当な機会を与えなかったこと等において先例がない。
…・これらすべての伝統を、そのように(合法であると=投稿者)片づける事が出来るならば、実に、我々は新しい、しかし、空恐ろしい法律の世紀に足をふみ入れたのであろう。
・・・・基本的権利の他の拒否を加えるならば、それは、裁判から、我々が知る一切の裁判らしいものを奪った」
その結果、1946年2月23日午前3時、山下大将は、絞殺されました。
*
本文は、旧漢字であり、また、法律における技術的な内容も多く含むので、読み通すこと自体、「大変」ですが、著者の意気込みにつられて、何とか最後まで読み通せました。
この裁判は、人類史の中での最初の「戦争犯罪者」を裁くことになったものです。
また、今日、中国、韓国による「戦後補償」として戦争責任が、問われ続けている中において、
特に、重要な文献である、と言えると思います。
(参考にしたサイト)
山下奉文(ともゆき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87
マニラ戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1945%E5%B9%B4)
(改題)