「百田発言」についての、「百田叩き」は、憲法違反か。
『表現の自由』『言論の自由』を否定する、ものか?
それは、本来的に言えば、憲法とは、「何の関係」もないことである。
自民党の若手政治家の勉強会「文化芸術懇話会」での、「マスコミ批判」騒動が、一向に収まる気配がない。
勉強会で問題発言をした、大西英男衆院議員が、6月30日に今度は、公然と「マスコミ批判」をした。
そのことで、「火に油を注ぐ」ことになった。
大西英男議員は、25日には、マスコミを懲らしめるには、広告料収入をなくせばいい、と発言した。
このことについて、「問題があったとは思えない」と明言したのだ。
しかも、今度は「事実無根の報道をしている一部マスコミを、懲らしめようという気はある」と、あらためて、はっきりと言い切った。
これで、「内輪の会議」であり、「そこで何が話されようと、問題がない」という言い訳は、通用しなくなってきた。
◆ この会合は、安倍首相を支持する若手議員の勉強会
同会の準備会合は、2015年(平成27年)5月27日におこなわれた。
呼びかけ人は、
木原稔衆議院議員(自由民主党青年局長)、
加藤勝信衆議院議員(内閣官房副長官)、
萩生田光一衆議院議員(自由民主党総裁特別補佐)、
の3人である。
同会への参加予定者の一人は、「有名人に『首相のやっていることは正しい』と発信してもらえば、一気に広まる」と期待を示し、「憲法改正の国民投票まで見据え『自民党政権応援団』を増やす狙い」と述べている。(これは、「安倍首相応援団」といいなおすべき、ところであろう。)
代表に就任した木原稔党青年局長は、「党所属国会議員として、(⇒)党や政府が進めようとしていることを後押しするのは当然だ」とした。
つまり、この会の「真の狙い」は、安倍首相の「応援団」として活動する、ことにある。
こういっても、過言ではなかろう。
wikipeidaの解説によると、会の関係者が、「首相が仕事をしやすいように、邪魔者が出てきたら排除するのが役割だ」と強調したという。(この記述については、裏がとれなかった。もし、この発言の裏が取れたら、・・・。)
が、今回の「マスコミ批判」や、大西議員の公での発言を観ると、「邪魔者が出てきたら排除するのが役割」という「解説」も、「火のないところに、煙はたたない」の、「たとえ」通りではないか。
そうなると、この「勉強会」が、まったく「私的な会合である」という主張は、もはや、通用しない、のではないか。
まして、政権党(与党)の議員による、会合である。
◆ 「百田発言」が、外部にでたのは、「想定内」のことだ
さて、この勉強会の初会合は、6月25日にあった。
私的な会合だという事であるが、会場には、記者が詰めかけていた。
記者は、会議の冒頭のみ、取材が許された。
あとは、記者をしめだしての、「秘密会」であった。
だが、発言に際しては、「マイク」が使われた。
つまり、別に、「盗聴」のようなことをしなくても、講演者や発言者の「声」は、廊下に漏れ聞こえていた、と思われる。
それに、「秘密」であれば、わざわざ、記者を呼ぶ必要がない。
記者を呼んだのは、最初から「想定済み」のことではなかったのか。
そして、呼んでおいて、会議での「発言」をきかせる。
それを記者が記事にする。
そうなれば、結果的に、マスコミを、「恫喝」することが出来る。
このような発言を公然と述べることは、さすがに、「安倍親衛隊」といえども、できまい。
だから、「遠回し」に、シグナルを出すことで、安倍政権の政策に異論をとなえると、「こうするぞ」と、「オドシ」をかけた。
もっと、「意地悪い」観方をすると、安倍首相の気持ちを忖度して、こういう発言をした。
そのことで、安倍首相の「援護射撃」をしよう、と思った。
ところが、結果は、「援護射撃」をするどころか、「味方を撃つ」ことになった。
だが、「結果」はどうであれ、「大西発言」や、「勉強会」で話されたこと―ただし、百田尚樹氏自身の、発言を除く―は、憲法違反(明白に、そうだとは言い切れないとしても)であり、「表現の自由」「言論の自由」への挑戦である。
◆ 『百田叩き』は、憲法違反。『言論の自由』を否定するものなのか
この件につき、例の「村上事件」で有名になった、北尾吉孝氏が自身のブログで、意見を述べておられる。
結論として、北尾氏は、次のように言われる。
日本で一流の会社の社長である、北尾氏においてさえ、この程度の認識であることに、驚かされる。
北尾氏自身が、「追及及すべきは『公の人』の言動であります」、と述べられているように、憲法が問題になるのは、「権力者との関係」において、である。
結論から先にいえば、「憲法に違反できる」のは、国家権力のみである、ということだ。
「国家権力以外のもの」による、「権利の侵害」は、憲法違反に問われることはない。
ここが、もっとも、肝心なところ。
よって、百田氏と、「特定の報道機関」との関係においては、そもそも、『表現の自由』、『言論の自由』は、問題には、なり得ない。
百田氏が、個人の「権利」を行使して、「特定の報道機関」を攻撃した。
それに対して、「特定の報道機関」も、自らに与えられている「権利」を行使して反撃した、だけのことである。
これを、報道機関が、「座して、死を待つべき」だと考えて黙っていたら、それこそ、「権利」を放棄したことになる。
同時に、百田氏の「発言を認めた」ことにもなる。
「理不尽な発言」には、反論があって、当然だ。
報道機関には、それさえ、「する権利がない」ということであれば、「黙れ」というに等しい。
百田氏と、「特定の報道機関」との関係は、私的な間においての、「権利」と「権利」の衝突であって、そこには「権力」が介入する余地はない。
したがって、憲法も、民主主義も、関係がない。
今日において、報道機関が、「第4の権力」と呼ばれていることから、「言論の自由」の問題である、との反論も予想される。
その反論に対しては、私としては、こう答えたい。
「権力」が、「権力であると認められること」の理由は、どこにあるか。
それは、その「権力」が、一般の国民が持ちえない、強大な「暴力装置」をもつことである、と。
強大な「暴力装置」とは、「警察」であり、「自衛隊」であり、「武器の携帯」がゆるされている、これらに準ずる各種の国家組織のことである。
今日の報道機関がいくら巨大化したとはいえ、このような「バック」を持つわけではない。
物理的な、「強制力」を持つわけではない。
したがって、このような批判は、「的を射た」ものではない、といわねばならないと思う。
(関連サイト案内)
・重ねての暴言 安倍首相の責任を問う=信濃毎日
・「脅し。メディア萎縮狙う」 識者、自民勉強会を批判=東京新聞
・百田を叩くのは言論の自由である=ブロゴス
・報道規制発言、批判相次ぐ…「おごりの結果」=読売
・「百田氏にも言論の自由ある」豊見城市議会が抗議案否決=沖縄タイムス
・「百田氏にも言論の自由」 マスコミ関係者からも擁護論が続々=JCAST
※ 改題、加筆をして、再送しました。(2015/7/3)
(2015年7月2日)
『表現の自由』『言論の自由』を否定する、ものか?
それは、本来的に言えば、憲法とは、「何の関係」もないことである。
自民党の若手政治家の勉強会「文化芸術懇話会」での、「マスコミ批判」騒動が、一向に収まる気配がない。
勉強会で問題発言をした、大西英男衆院議員が、6月30日に今度は、公然と「マスコミ批判」をした。
そのことで、「火に油を注ぐ」ことになった。
大西英男議員は、25日には、マスコミを懲らしめるには、広告料収入をなくせばいい、と発言した。
このことについて、「問題があったとは思えない」と明言したのだ。
しかも、今度は「事実無根の報道をしている一部マスコミを、懲らしめようという気はある」と、あらためて、はっきりと言い切った。
これで、「内輪の会議」であり、「そこで何が話されようと、問題がない」という言い訳は、通用しなくなってきた。
◆ この会合は、安倍首相を支持する若手議員の勉強会
同会の準備会合は、2015年(平成27年)5月27日におこなわれた。
呼びかけ人は、
木原稔衆議院議員(自由民主党青年局長)、
加藤勝信衆議院議員(内閣官房副長官)、
萩生田光一衆議院議員(自由民主党総裁特別補佐)、
の3人である。
同会への参加予定者の一人は、「有名人に『首相のやっていることは正しい』と発信してもらえば、一気に広まる」と期待を示し、「憲法改正の国民投票まで見据え『自民党政権応援団』を増やす狙い」と述べている。(これは、「安倍首相応援団」といいなおすべき、ところであろう。)
代表に就任した木原稔党青年局長は、「党所属国会議員として、(⇒)党や政府が進めようとしていることを後押しするのは当然だ」とした。
つまり、この会の「真の狙い」は、安倍首相の「応援団」として活動する、ことにある。
こういっても、過言ではなかろう。
wikipeidaの解説によると、会の関係者が、「首相が仕事をしやすいように、邪魔者が出てきたら排除するのが役割だ」と強調したという。(この記述については、裏がとれなかった。もし、この発言の裏が取れたら、・・・。)
が、今回の「マスコミ批判」や、大西議員の公での発言を観ると、「邪魔者が出てきたら排除するのが役割」という「解説」も、「火のないところに、煙はたたない」の、「たとえ」通りではないか。
そうなると、この「勉強会」が、まったく「私的な会合である」という主張は、もはや、通用しない、のではないか。
まして、政権党(与党)の議員による、会合である。
◆ 「百田発言」が、外部にでたのは、「想定内」のことだ
さて、この勉強会の初会合は、6月25日にあった。
私的な会合だという事であるが、会場には、記者が詰めかけていた。
記者は、会議の冒頭のみ、取材が許された。
あとは、記者をしめだしての、「秘密会」であった。
だが、発言に際しては、「マイク」が使われた。
つまり、別に、「盗聴」のようなことをしなくても、講演者や発言者の「声」は、廊下に漏れ聞こえていた、と思われる。
それに、「秘密」であれば、わざわざ、記者を呼ぶ必要がない。
記者を呼んだのは、最初から「想定済み」のことではなかったのか。
そして、呼んでおいて、会議での「発言」をきかせる。
それを記者が記事にする。
そうなれば、結果的に、マスコミを、「恫喝」することが出来る。
このような発言を公然と述べることは、さすがに、「安倍親衛隊」といえども、できまい。
だから、「遠回し」に、シグナルを出すことで、安倍政権の政策に異論をとなえると、「こうするぞ」と、「オドシ」をかけた。
もっと、「意地悪い」観方をすると、安倍首相の気持ちを忖度して、こういう発言をした。
そのことで、安倍首相の「援護射撃」をしよう、と思った。
ところが、結果は、「援護射撃」をするどころか、「味方を撃つ」ことになった。
だが、「結果」はどうであれ、「大西発言」や、「勉強会」で話されたこと―ただし、百田尚樹氏自身の、発言を除く―は、憲法違反(明白に、そうだとは言い切れないとしても)であり、「表現の自由」「言論の自由」への挑戦である。
◆ 『百田叩き』は、憲法違反。『言論の自由』を否定するものなのか
この件につき、例の「村上事件」で有名になった、北尾吉孝氏が自身のブログで、意見を述べておられる。
結論として、北尾氏は、次のように言われる。
「今回のメディアによる一連の『百田叩き』の動きというのは、之こそ憲法で保障されているはずの『表現の自由』、『言論の自由』を否定するものであるように思われて、健全たる民主主義社会の根幹を揺るがす由々しき事態だと私自身は危惧しています。」(=『「百田叩き」は憲法違反』。)
日本で一流の会社の社長である、北尾氏においてさえ、この程度の認識であることに、驚かされる。
北尾氏自身が、「追及及すべきは『公の人』の言動であります」、と述べられているように、憲法が問題になるのは、「権力者との関係」において、である。
結論から先にいえば、「憲法に違反できる」のは、国家権力のみである、ということだ。
「国家権力以外のもの」による、「権利の侵害」は、憲法違反に問われることはない。
ここが、もっとも、肝心なところ。
よって、百田氏と、「特定の報道機関」との関係においては、そもそも、『表現の自由』、『言論の自由』は、問題には、なり得ない。
百田氏が、個人の「権利」を行使して、「特定の報道機関」を攻撃した。
それに対して、「特定の報道機関」も、自らに与えられている「権利」を行使して反撃した、だけのことである。
これを、報道機関が、「座して、死を待つべき」だと考えて黙っていたら、それこそ、「権利」を放棄したことになる。
同時に、百田氏の「発言を認めた」ことにもなる。
「理不尽な発言」には、反論があって、当然だ。
報道機関には、それさえ、「する権利がない」ということであれば、「黙れ」というに等しい。
百田氏と、「特定の報道機関」との関係は、私的な間においての、「権利」と「権利」の衝突であって、そこには「権力」が介入する余地はない。
したがって、憲法も、民主主義も、関係がない。
今日において、報道機関が、「第4の権力」と呼ばれていることから、「言論の自由」の問題である、との反論も予想される。
その反論に対しては、私としては、こう答えたい。
「権力」が、「権力であると認められること」の理由は、どこにあるか。
それは、その「権力」が、一般の国民が持ちえない、強大な「暴力装置」をもつことである、と。
強大な「暴力装置」とは、「警察」であり、「自衛隊」であり、「武器の携帯」がゆるされている、これらに準ずる各種の国家組織のことである。
今日の報道機関がいくら巨大化したとはいえ、このような「バック」を持つわけではない。
物理的な、「強制力」を持つわけではない。
したがって、このような批判は、「的を射た」ものではない、といわねばならないと思う。
(関連サイト案内)
・重ねての暴言 安倍首相の責任を問う=信濃毎日
・「脅し。メディア萎縮狙う」 識者、自民勉強会を批判=東京新聞
・百田を叩くのは言論の自由である=ブロゴス
・報道規制発言、批判相次ぐ…「おごりの結果」=読売
・「百田氏にも言論の自由ある」豊見城市議会が抗議案否決=沖縄タイムス
・「百田氏にも言論の自由」 マスコミ関係者からも擁護論が続々=JCAST
※ 改題、加筆をして、再送しました。(2015/7/3)
(2015年7月2日)
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