2015年7月16日木曜日

安保法案は、自衛隊を、「米衛隊」にすることだ


昨日の、「暴挙」を、絶対に忘れない。
安保法案は、日本の自衛隊を、「米衛隊(べいえいたい)」にすることだ。

安倍政権こそ、「裏切り」ものだ。
しかも、安倍首相は、採決を前にして、退席した。

安倍政権と、与党(自民・公明)が、衆院「平和」委員会で、安保法案を強行採決した。
共産党の出した動議を否決したあと、「形ばかり」の討論が行われた。

あれを「討論」というのなら、「討論」があきれて、逃げ出すことだろう。


◆ 自由な「討論」こそが、議会政治の「要諦」であ

15日の、衆院「平和」委員会での審議風景は、日本の国会のおける審議が、「形骸化」していることを象徴する、「喜劇」であった。


「討論」こそが、議会政治の「要諦」である。
もし、これが十分に確保されることがなければ、国会は、「死んだ」も同然。

昭和30年、国会法第5次改正(事実上は、「改悪」)により、日本の国会から、「自由討議」が、削除された。
このことにより、国会から、自由討議が、姿を消した。

英国の宰相のマーガレット・サッチャーは、「民主主義の眼目(がんもく)は、率直で力を込めた討論である。信ずるところをキチンと主張し、理由を説明すれば、人は必ずついてくる」と、力説した。

百田「発言が、まだ、「尾を引いて」いる。
言論の自由を守れ、という声が、「ちまた」にあふれている。

しかし、「言論の自由」は、議会における「それ」を、嚆矢(こうし=初め)とする。
「言論の自由」こそが、立憲政治の「要(かなめ)」である。

議会における、議員の「言論の自由」を、けっして妨げない。
このことが保障されるところにこそ、国会の国会たる「所以」がある。

それを、強制的に、排除するとは。
これでは、「暗い時代」といわれた、「戦前の国会」にも劣る、議会の姿だ。

戦前にでさえ、尾崎幸雄の「桂内閣」弾劾演説、浜田国松の「腹切り問答」、斉藤実の「(聖戦)遂行」反対演説などに代表される、幾多の「名討論」があった。


◆ 安倍首相に「何も言えない」、自民の議員の「意気地のなさ」

それが、見よ。
今の国会のどこに、「言論の自由」の自由がある。

言論の力をもって、時の政府をさえ倒す「力のこもった」討論をみることの出来る議会が、どこにある。
議員が、どこにいる。

浜田国松のように、―議事録に、軍隊を侮辱した言葉があるかないか、調べてほしい。―「あったら割腹してキミに謝する。なかったら、キミ割腹せよ」と迫れる、「腹の座った」議員が、いるか。

斉藤実のように―財界や、政界、国民のすべてが、(シナ事変を)「聖戦」の名のもと、「一致団結して遂行する中において―、その政府に反対する演説を、見事におこなった「気骨」のある議員が、一人でもいるか。

国民の「声なき声」を代表する、演説を聴くことが、出来るか。
そんなものは、もはや日本の国会からは、完全に消え失せた。

「ある」のは、官僚が書いた「答案」を、棒読みするだけの、まるで「操り人形」のような国会議員の姿のみである。

内閣の規定を欠いた「大日本帝国憲法」の下での、自由な討議。
民主的な規定を完備した「日本国憲法」下においての、「不自由」な討議。

まるで正反対のことが、進行中だ。
これを歴史の「皮肉」といわずして、何と例えればいい。

それにしても、野党議員には、遠慮のない「罵声」を浴びせるくせに、安倍首相にまったく「何も言えない」、自民党の国会議員の「意気地(いくじ)のなさ」には、あきれかえる。
情けなくなる。

「情けなくなる」どころか、それを通りこして、「滑稽(こっけい)」に思えてくる。


◆ 安保法案は、日本の自衛隊を、「米衛隊(べいえいたい)」にすること

「日本を取り戻す」という安倍首相は、この安保法案を、米国の議会において、「夏までに成立させる」ことを約束した。
その約束を、「何がなんでも」押し通すつもりのようだ。

これが、安倍首相がいう、「日本を取り戻す」ということの、真の姿だ。
それは、「日本を取り戻す」ということではなく、「日本を米国に売り渡す」ということである。

日本の自衛隊を、米国に、売り渡すこと。
日本の自衛隊を、「米衛隊(べいえいたい)」にすることだ。

日本の国民を、米国の「奴隷」にすることである。

「どうせ血を流すこと」になるなら、日本の国民のためにこそ、流したい。
それが、自衛隊員の「気持ち」だろう。

国民の気持ちだろう。

それを、「日米安保条約」や、在日米軍基地のことは、何一つ触らずに、「憲法違反」を承知の上で、安保条約をごり押しする。

「女心と秋の空」は、分からないと言われるが、「安倍首相の心」は、もっと、解らない。

(2015年7月16日)

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