記事を投稿する際にいつも思う事であるが、「タイトル」をつけることは、むずかしい。
個人のブログであっても、そうなのだから、膨大な記事を配信し続けるマスコミは、大変だろう。
だが、「大変さ」と、「正確さ」とは、別問題である。
さて、ANN(テレビ朝日)が、「安保法制『やっと憲法論脱し』事例に基づく具体論へ」というタイトルの記事を報じた。(7月30日)
◆ 衆議院で発言していない、「少数野党」には、「これから」である
このタイトルは、「ミスリード」である。
この記事は、最後のほうで、このタイトルのことに触れ、★「安保法制の議論はようやく憲法論だけでなく、事例に基づく具体論が出てくるようになりました。」と、結んでいる。
タイトルだけをみれば、安保法案の「憲法に関する議論」が、もうすでに「終わった」かのような印象を与えている。
だが、実際には、まだ終わっては、いない。
だから、記事の締めくくりでは、「ようやく憲法論だけでなく・・・」となっている。
これは、「脱している」とは、「言えない」から、こういう「言い方」になっっている。
「タイトルごとき」に、そう「目くじら」を立てるとこはないだろう、という反論もあろう。
たしかに、私も、すこし「オーバー」な、「タイトル」をつける事はある。
だが、これは、個人的なブログの記事だ。
朝日テレビという巨大企業と比較すれば、「1本のワラ」のような存在である。
その影響力は、「天と地」ほどの差がある。
だから、「軽々しく」見過ごすことが出来ないのだ。
今回の安保法案の問題は、「憲法論」にこそ、ある。
「違憲とは、言えない」という安倍政権を認めるのか。
「違憲である」という、野党や国民の主張を認めるのか。
この一点にかかっている、といっても、「当たらずといえども、遠からず」である、と思う。
同時に、「行政の府」である内閣の「横暴」を許すのか、「許さないのか」という「戦い」でもある。
これは、まさに「憲法論」に他ならない。
それを、もう「憲法論」はやる必要がない、と取れるような「タイトル」をつけることは、安倍政権を利することだ。
朝日は、「誤報問題」「偏向記事」のことで、「世間の批判」を浴び過ぎて、「弱気」になっているのではないか。
だが、「偏向記事」という事でいうなら、それは、「朝日」に限ったことではない。
「産経」や「読売」にも、そういう記事は、多い。
だいいち、何をもって、「偏向している」、「偏向していない」という判断をするのか。
その基準が、どこにあるのか。
「どこにある」どころか、基準が「存在する」こと事体、ハッキリとさせることさえ出来ない、だろう。
「中立的」な報道などというものは、「出来る」訳がない。
もし、「出来る」と人がいれば、その人は、「幻想」を観ているだけである。
「朝日よ、もっと、勇気を持て」と、私は言いたい。
国会の審議が、参議院に移ったことで、衆議院では発言できなかった「少数野党」にも、発言の場が出来た。
これらの「少数野党」は、衆議院においては、「一言」も発言の機会がなかった。
「言いたいこと」は、山のようにあることだろう。
いまさら言うまでもなく、「少数野党」の意見を大切にすることこそが、民主主義の基本である。
だから、安保法案の「憲法論議」が、まだまだ、始まったばかりである。
(関連サイト案内)
★安保法案が参院審議入り 与党の質問時間増やす =日本経済新聞
★安倍首相が礒崎補佐官を「注意」 法的安定性発言で=産経ニュース
★保法制で野党、違憲の“入り口論”に戻り攻勢=ANN
(2015年7月31日)
個人のブログであっても、そうなのだから、膨大な記事を配信し続けるマスコミは、大変だろう。
だが、「大変さ」と、「正確さ」とは、別問題である。
さて、ANN(テレビ朝日)が、「安保法制『やっと憲法論脱し』事例に基づく具体論へ」というタイトルの記事を報じた。(7月30日)
◆ 衆議院で発言していない、「少数野党」には、「これから」である
このタイトルは、「ミスリード」である。
この記事は、最後のほうで、このタイトルのことに触れ、★「安保法制の議論はようやく憲法論だけでなく、事例に基づく具体論が出てくるようになりました。」と、結んでいる。
タイトルだけをみれば、安保法案の「憲法に関する議論」が、もうすでに「終わった」かのような印象を与えている。
だが、実際には、まだ終わっては、いない。
だから、記事の締めくくりでは、「ようやく憲法論だけでなく・・・」となっている。
これは、「脱している」とは、「言えない」から、こういう「言い方」になっっている。
「タイトルごとき」に、そう「目くじら」を立てるとこはないだろう、という反論もあろう。
たしかに、私も、すこし「オーバー」な、「タイトル」をつける事はある。
だが、これは、個人的なブログの記事だ。
朝日テレビという巨大企業と比較すれば、「1本のワラ」のような存在である。
その影響力は、「天と地」ほどの差がある。
だから、「軽々しく」見過ごすことが出来ないのだ。
今回の安保法案の問題は、「憲法論」にこそ、ある。
「違憲とは、言えない」という安倍政権を認めるのか。
「違憲である」という、野党や国民の主張を認めるのか。
この一点にかかっている、といっても、「当たらずといえども、遠からず」である、と思う。
同時に、「行政の府」である内閣の「横暴」を許すのか、「許さないのか」という「戦い」でもある。
これは、まさに「憲法論」に他ならない。
それを、もう「憲法論」はやる必要がない、と取れるような「タイトル」をつけることは、安倍政権を利することだ。
朝日は、「誤報問題」「偏向記事」のことで、「世間の批判」を浴び過ぎて、「弱気」になっているのではないか。
だが、「偏向記事」という事でいうなら、それは、「朝日」に限ったことではない。
「産経」や「読売」にも、そういう記事は、多い。
だいいち、何をもって、「偏向している」、「偏向していない」という判断をするのか。
その基準が、どこにあるのか。
「どこにある」どころか、基準が「存在する」こと事体、ハッキリとさせることさえ出来ない、だろう。
「中立的」な報道などというものは、「出来る」訳がない。
もし、「出来る」と人がいれば、その人は、「幻想」を観ているだけである。
「朝日よ、もっと、勇気を持て」と、私は言いたい。
国会の審議が、参議院に移ったことで、衆議院では発言できなかった「少数野党」にも、発言の場が出来た。
これらの「少数野党」は、衆議院においては、「一言」も発言の機会がなかった。
「言いたいこと」は、山のようにあることだろう。
いまさら言うまでもなく、「少数野党」の意見を大切にすることこそが、民主主義の基本である。
だから、安保法案の「憲法論議」が、まだまだ、始まったばかりである。
(関連サイト案内)
★安保法案が参院審議入り 与党の質問時間増やす =日本経済新聞
★安倍首相が礒崎補佐官を「注意」 法的安定性発言で=産経ニュース
★保法制で野党、違憲の“入り口論”に戻り攻勢=ANN
(2015年7月31日)