2015年4月22日水曜日

浦添市長の公約破棄。何故日本では公約破りが許されるのか:

今、統一地方選挙の真っ最中である。この事は、昨日の記事にも書いた。
そのさなかに、選挙とは何か、果たして投票する上において、何を基準に候補者を選べばいいのか、ということについて考えさせられる出来事が起きた。


それは、沖縄県浦添市の市長の公約破棄の事である。
20日の、浦添市の市長の会見で明らかにされた。



(浦添市長の記者会見の様子。YouTubeの動画)


2013年2月に行われた市長選挙において、当選した松本哲治市長は、米軍基地の軍港の「受け入れ反対、移設なき返還を求める」という公約を掲げ当選した。
また、「市民が主役の民主主義」、「本当の市民主体の政治」の実現を訴ったえてもいた。

琉球新報は、「人に優しい活力ある市政を」と言うタイトルの記事を掲載し、松本市長への大いなる期待を表明していた。

と同時に、市長の公約実現への道は、平坦でないことを懸念して、「日米合意見直しを迫る対政府交渉は今後、困難も予想される。党派を超えた市民党的な取り組みで公約を実現できるか、新市長は戦略構想力と実行力を問われよう」とも記事に書いた。

まさにこの懸念が、本当になった。
この度の松本市長の公約破棄の会見は、移設問題だけではなく、「市民が主役の民主主義」、「本当の市民主体の政治」の実現と言う政策面においても、市長を支持した住民の願いを裏切るものである。

この責任は重い。
市民からすれば、二重、三重に裏切られた、という思いが強いことであろう。

会見において、市長は、その後の政治状況が急速に、しかも大きく変わった。
浦添市の利益を考慮して、決断した。
今後は、「政府に寄り添い、市政を起こなっていきたい」とものべた。

そこには、市長選での、市民に寄り添い、市民を主役とし政治を実現する、という姿勢は微塵も感じられなかった。

ただただ、いい訳めいた理屈が、述べられただけであった。
記者会見は、大きな拍手の中で終了した。
この記者会見の模様を見ただけでも、これがいかに演出されたものであるかが、よく分かる。


さて、私の関心の中心は、この市長を非難する事ではない。
この事例を通して、選挙における公約の持つ意味。
選んだ後の公約破棄について、何を、どう考えるのか、というにある。

選挙制度が悪いのか。
それとも、そういう人物である、と見抜けなかった選挙民に問題があるのか。
日本における選挙公約というものは、所詮この程度ものでしかない、と考えるのか。

市民の側もはじめから、選挙における候補者の公約など、信じてもいないし、当てにもしていない、ということなのか。

だから、当選者は、平気で公約を反故にするのか。
事情が変わったのだから、無理もないことだ。
しかも、住民の利益を考慮してのことなのだから許される、という思いなのか。

辞職して信を問うまでのことは必要ではなく、説明責任を果たせば、それで済むと考えているのか。


思うに、この問題は、詰まるところ、契約という物をどう考えるのか、ということに帰着するのではないか。
日本人は聖書のような書物を持たない。
だから、契約ということがもつ意味が理解できていない。

契約を破ったらどういう「悲惨な目に遭う」のかも経験したことがない。

だから、いくら書面で契約を交わし、細かい規定を設けても、「そういうこと仕方がない」となってしまう。
そういう社会慣習が、連綿とひきつがれてきた。

我々は、本音と建前を使い分けてきた。
それは選挙における候補者も投票者も同じではないか。

所詮は、「御上」のやること。
騒いだところで、何も変わりはしない、という「あきらめの気持ち」がある気がする。

公約を破っても、恥とも、政治責任を放棄した、とも当選者は考えない。
選んだ側も、憤ることはあっても、辞任を要求するまでのことは、しない。

もちろん、公約を変更する事が起きることは出てこよう。
それはそれで、絶対に許されない、というわけではない。
だが、選挙において有権者に約束した公約を変更するのなら、辞任して出直すべきであろう。

そうでないと、選挙における投票率は、下がる一方となろう。
それは有権者の意識が低いからではない。

選挙において約束したことを平気で破り、何とも思わない当選者が大手を振って道を歩く。
このことが許される限りは、いくらマスコミが選挙に行きましょうと、呼びかけたところで、投票率が伸びることはないであろう。

結果、日本における民主主義は、発展を止める。
社会は荒廃し、無法者が跋扈(ばっこ)する世の中となることであろう。

何よりも問題なのは、それを食い止める有効な手段が、現在の所、見当たらないことにある。

*今も外で聞こえる選挙カーの連呼の声を聞きながら、記す。


(2015年4月22日)