2015年4月20日月曜日

自民党のテレ朝聴取=憲法は国家権力への命令。言論の自由を保障する責任は、国家にある(改題):

古賀茂明氏のテレビ朝日での発言をめぐって、自民党がNHKとテレビ朝を呼びつけて、事情を聴取した。
このことについて、民主党や、マスコミなどから、異論が出されている。
また、当の自民党の中からも、疑問の声が聞かれる。


今回の事について問題視されている、言論の自由ということについて、改めて掘り下げてみたい。


まず、最初に、憲法について観てみる。
憲法は、誰のために書かれたのか、という問題である。
言い換えれば、憲法に違反する事が出来るのは誰か、という問題になる。

結論から言えば、それは国家権力を縛るために書かれたものであり、従って憲法に違反する事が出来るのは、国家のみである。

もちろん、現代のような発達した、複雑な社会においては、物事はそう単純ではない。
だが、議論を複雑にしないために、今は、国家権力を、立法・司法・行政に限定して考えてみる。

国家権力は恐ろしい。
その気になれば何でも出来る。
警察があり、軍隊を持つ。
裁判権を持ち、市民を投獄できる。

このような強大な力を持つので、それを縛るために憲法がある。
だから、憲法は、他の法律とは根本的に違う。

現在の日本の道徳的な混乱や廃退を前に、憲法に国民の道徳心ついて書き込むべきである、という主張があるが、それは根本において間違っている。
憲法がどういうものであるのかが理解できていない、というべきだろう。

果たして、このことについて、どれだけの国民が理解できているだろうか。


今ここに二人の市民がいて、口論になったとする。
もめにもめて、お互いが法に訴えたとする。
その裁判において、両者が相手を憲法違反であると主張したとしても、裁判所は受け付けない。

たとえ、言論の自由を侵された、と主張しても、だめなのである。
訴えるのならば、名誉毀損罪とか、侮辱罪とかということで、告訴するしかない。

もしここで、言論の自由を持ち出すようなら、全く憲法を理解できていない、ということになる。

これらのことは、個人同士にかぎらない。
職場においても、社会においても同様である。

国家権力の関与が認められない限りは、私権に関わる事である。
国家とは関係の無いことである。
だから、憲法が保障する言論の自由が侵害された、ということにはならない。

逆に、個人の行動を国家権力が縛ることは、憲法違反である。
少し前に問題になったことであるが、いわゆる「義勇兵」という問題は、これに相当する。

ある個人が、「義勇兵」として海外において戦争に参加しても、これを我が国は憲法において戦争行為を禁止しているから、憲法違反であると言う事は出来ない。
もし、これを憲法違反であるという人があれば、それも憲法について理解できていないということに、なる。

もちろん、その事で、その人が犠牲になるということが起きるかもしれない。
たとえそういうことになったとしても、それは個人の責任である。
よく言われる自己責任というものだ。

そのことについて、国家の責任を問うことは出来ない。
これを国家の責任である、とするような議論が起きるから、話がおかしくなる。


国家とは、怪獣である。
一旦暴走し出したら、我々市民の手に負えるものではない。
怪獣をやっつけてくれる、「ウルトラマン」は、いない。

だから、二重三重にぐるぐる巻きにしておく必要がある。
国家権力は、市民の自由を奪い、徴兵し、戦争に駆り立てることもできる。
市民を戦争をする「道具」として利用することも、場合によっては可能である。

それは歴史が証明している。
そんな事は現代の日本にはあり得ない、と言いきれる人があるか。

誰も「そうはならない」、と保障する事は出来ないだろう。
だからこそ、そうなる前に、怪獣の手足を厳重に縛っておく。
そのための道具が憲法なのである。

そのために、憲法は国家権力の都合で、国民の言論の自由を奪ってはならない、と規定している。
憲法は、国家が国民に保障する義務がある、といっているのであって、「保障する」と書かれているから、保障されているわけではない。

繰り返しになるが、それはあくまで国家権力になされた命令である。
もちろん、国家権力は、常に暴走する危険性をはらんでいる。
だからこそ、国民は常に、その権力が暴走しないように監視する必要がある。

だが、国民一人一人の力には限界がある。
それを国民にかわって代行するのが、報道機関である。
その報道機関が国家権力の横暴を許すようになったら、すでに怪獣は解き放なされた、というべきであろう。

(2015年4月20日)