安倍首相の今回の訪米の大きな目的の一つは、米国の議会において、演説をすることである。
この事に関して当初、「安倍首相に任せる」といっていたオバマ政権の方針が変わり、政権内部より「村山談話」の継承を認める内容にすべきである、と注文がついた。 さて、1995年、まだ、正月飾りも取れない1月17日の早朝に、神戸を中心とする未曾有の大震災が起きた。その震災がもたらした傷は、20年を経過した今も、癒されてはいない。 ところで、その年に、もう一つの「災害」が日本にもたらされた。 このことについては、地震の記憶が強烈なため、陰にかすんでしまっている。 この災害も、その後、長く日本の国民を苦しめることとなった。 それが、「村山談話」と「村山書簡」である。 そこで、「村山談話」と「村山書簡」とは何か、ということについて、改めて、検討を加えることにしたい。 ただ、ここで前もって、読者にお願いをしておきたい。 それは、私が、普通の市民であり、専門家ではない、ということである。 従って、読者は、一人一人が自分の頭で、この記事を批判的に検討して頂きたい。 ★ 「村山談話」とは何か まずはじめに、大きな流れをまとめておく。 *1995年8月15日 「村山談話」を発表。 * 10月5日 参議院での答弁で、「日韓併合条約は合法」と認める。 * 10月16日 韓国国会が、決議文を採択する。 * 11月13日 衆議院にて、参議院での答弁について釈明する。 * 11月14日 「村山書簡」を韓国の大統領に送る。 村山談話においては、次のように述べられた。 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。 私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」 実際にはもっと長い談話であるが、重要な個所はここである。 この談話が、発表されたのは、次のような事情による。 平成7年6月10日、戦後50年国会決議が衆議院で採決された。この戦後50年国会決議は満場一致でもなく、欠席者もかなりあった。 安倍晋三首相自身も欠席している。 当時、首相であった村山富一氏は、この国会決議について、謝意も不十分だとして、3か月後の8月15日に、首相談話という形で改めて、発表したのであった。 ★「村山書簡」が送られた経緯 ところが、村山富一元首相は、その口の根も乾かぬうちに、「驚くべきこと」を口にした。 10月5日の衆議院での答弁においてのことである。 その答弁において、「韓 国併 合条約 は,当 時 の国際関係等 の歴史 的事情 の中で法的 に有効 に締結 され,実 施 され た ものであ ると認 識 をいた してお ります」と述べたのである。 つまり、「日韓併合条約」は、合法である、と認めたのである。 この答弁に、韓国は大反発をした。 そして、10月16日の韓国国会における決議の採択が行われた。 それは、「大韓帝国と日本帝国の勒約(ろくやく)に対する日本の正確 な歴史認識を促す」という決議文である。 決議文 には、前文 で 『「韓 日合併条約」が有効 に成立 した と い う」 村山発言 を 「歴 史の歪 曲」 と断罪 し,「 これ以上繰 り返 して はな らないとい うこと を強 調 す る た めに,全 会一 致で次 の ように決議す る』と記述されている。 決議の要点は、この決議文の題名が、示している。 要するに、「韓日併合条約」が合法であるという認識は、誤りであり、日本国の歴史認識を改めさせる」ということである。 これを受けたのか、どうかはわからないが、村山首相は11月13日に衆議院で、参議院での答弁について、 「日韓併合条約 は形式 的には合意 と して成 立 して いるが,実 質 的 に は当時 の歴 史 的事情 が背景 にあ り,そ の背景 の もとに成立 した。 当時 の状況 について は,わ が国 と して深 く反省 すべ きものがあ った。 条約締結 にあた って,双 方 の立場 が平等 だ った と考えていない」 と釈明した。 そして、早くも次に日には、金泳三元大統領に、「村山書簡」と呼ばれている親書を送った。 その親書において、「日韓併合条約」は、「民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約」であり、「深い反省と心からのおわび」を表明した。 ★「村山書簡」とは何か その書簡について、これまで書いてきたこととの重複をいとわないで、重要な個所を書き出してみる。 「・・・・・しかし、19世紀後半から急速に生じた、大きな力の差を背景とする双方の不平等な関係の中で、韓国併合条約とそれに先立つ幾つかの条約が締結された。これらの条約は民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いを入れない。 私は8月15日の談話で、国策の誤りを認め、我が国が多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止めることを表明した。あらためて、植民地支配の下で、朝鮮半島の人々に耐え難い苦しみと悲しみを与えたことについて、深い反省と心からのおわびの気持ちを表明する。 この条約が韓国国民の心に残した、いやしがたい傷の深さをあらてめて胸に刻んだ。過去に対する痛切な反省があってこそ、未来志向の日韓関係を築き上げることができるというのが、私の揺るぎ信念だ。・・・・ 」 さて、この反省とお詫びの気持ちを表明したことで、その後、村山富一氏の持つ信念のとおりに、「未来志向の日韓関係を築き上げること」が出来たであろうか。 大いなる貢献をすることができたであろうか。 それは、ここにあらためて言うまでもないことである。 日本人の、日本国政府の、「過去に対する痛切な反省」は、いつまでたっても、十分である、とは認定されないままである。 ★ 「村山談話」と「村山書簡」が残したもの 「村山談話」と「村山書簡」は、ことあるごとに持ち出され、村山富一氏の「願いや信念」 とは裏腹に、未来志向の日韓関係を築き上げることを妨げる存在になっている、 と私は思う。 村山富一氏が韓国に対して、誤りを認め、おわびを表明したことで、その後の日本は、韓国や中国に対して、平謝りにあやまり続けることになっている。 果ては、我が国の教科書の内容についてまで、干渉される羽目に陥っている。 国の根幹に関わる教育内容にまで、口をはさまれる結果をもたらしている。 国と国との外交関係において、誤りを認めれば、どういう結果になるかという認識が、村山富一氏には欠けていた。 謝罪外交がいかなる結果をもたらすのかという認識がなかった。 いったん謝罪を口にすれば、その責任を取る必要に迫られる。 責任を取るとは補償をする、ということである。 単に、誤ればそれで済む、という単純なものではないのである。 この村山談話が出た後は、日本において、記念日が来るたびに、「首相談話」なるものが発表される慣例ができた。 そして、必ず、この「村山談話」について言及するのかどうかということが問題にされる。 不思議といえば不思議ではある。 今年は、戦後70周年にあたる。 例にもれず、安倍首相がいかなる談話を発表するのかが、早くも取りざたされている。 22日には、安倍首相はバンドン会議で、演説をした。 マスコミも、この「村山談話」をどう扱うか、ということのみに、視点を当てた報道をする。 談話を発表することの是非には言及することがない。 「村山談話」と口にすれば、すべてを黙らせることができる、と考えているかのようである。 これでは全くの思考停止である。 22日には、安倍首相はバンドン会議で、演説をした。
今度は、米国議会においての演説である。
このようにして、ことあるごとに、「村山談話」が持ち出される。
「日本国のあるべき姿を求める」、という安倍首相が、このたびの演説において、いかなる内容のことを話すのか、我々国民も、大いに注目すべきである。
(2015年4月27日) |