2013年9月10日火曜日

トルコの学生死亡事件で、直接関係がない大学当局が会見を開く愚。

日本の高等学校が全入同然の形になるとともに、日本の大学が、「レジャーランド」化したと言われるようになって、ずいぶん経つ。


それに輪をかけて、兄弟・姉妹がない「一人っ子」の増加が、子供らへの過保護を増々助長することになっているようである。


おりしも五輪誘致が決まったその日の、トルコで、事件が起きた。

この事の解説は、他に任せよう。

ここで問題にしたいのは、学生と大学のことである。


伝えれる所によると二人は、同じ大学の友達同士のようだ。

4年生で、就職先も決まっていたとのこと。
家族の嘆きはいかばかりであろうと考えると、心が痛む。

それでも批判を覚悟で、あえて書こう。

まず大学のことである。


こういう事故・事件があると、必ずと言っていいほど、大学が会見を開く。
そして、被害にあった学生がいかに優秀で、立派な学生であったかを、いろいろと例を引いて説明する。

また逆に、犯罪を犯したりした学生を出した場合には大学は、「世間を騒がせ本当に申し訳ありません。二度とこういうことがないように指導を強化します」と言うような談話を出し、平あやまりだ。謝るべきは、本人だろうと思うのだが、世間が許してくれないと思うのか、大学当局が必ず、あやまる。


どちらの例にしても、何故大学が、前面に出てこなければならないのだろう。

悲痛な顔して会見をおこなわなければならないのだろう。

大学関係者を派遣までする必要があるおだろうか。
どう考えても理解が出来ない。

彼女らは、「卒業旅行」と称して、まったく個人的に海外へ旅行に行ったのである。
私的な行動だ。
だから、大学とは一切関係がない所での出来事だ。

それを大学が会見を開いて,あたかも責任が大学当局にあるように,振る舞うのは、何故なのだろう。

今はどうかわからないが、我々のころは入学すると大学から、「今後は皆さんを大人として扱いますから、自分の責任で行動して下さい。支援は惜しみませんが、あくまでも個人の責任を自覚して下さい」といわれたものだ。

大人として扱うと言うことは、何かあっても大学は関与しませんよ、ということではないのか。
むろん大学の構内でのことなら、そうはいかない。
今回のことは、明らかに大学とは関係のない所での事件だ。

命を奪われた学生を悼む談話を出す程度ならよかろう。
わざわざ会見を開くことはないのではないか。

どうも大学は、学生を子供扱いにしているように思えるのである。
中学や高校ではないのである。

まして、事件は国外で起きたのである。
会見を開くとすれば、外務省ではないのか。

旅行社や,渡航する人に対して、トルコ国内の情報を十分に伝えたのか。
その点、不備はなかったのか。
この事について、外務省こそが会見を開いて明らかにするべきであろう。

大学が会見を開いたところで何が解決すると言うのであろうか。
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さて、二人の学生のことである。
今どきのことであるから、海外に行くなとは言わない。
また、言うべきことでもない。

アルバイトをして作った資金であれ、親が出した資金であれ、どう使おうと、――海外へ行こうとーー自由だ。

若く、時間が自由になるうちに、外国に行って見聞を広げることには、賛成だ。
だが、これだけ情報が、手軽に手に入る世の中である。
正直なところ、もう少し慎重に行動できなかったのかと思う。

何処にいても、何をしていても、人間、一寸先は闇である。
それは今度の地震が良く表している。

確かにその通りなのだが、あまりにも悲惨である。
前途洋々の人生を期待して、これまで育ててこられたご両親のことを考えると、言葉もない。

(事件を伝えた、毎日JPの記事  2013/9/10))

「日本でも人気の観光地でなぜ−−。トルコ中部の世界遺産・カッパドキアで9日、新潟大教育学部4年の女子学生2人が刃物で刺され死傷する事件が起きた。笑顔での帰国を待ちわびていた家族らに届いた悲報。「信じられない」と声を絞り出した。
新潟大(新潟市)は10日午前10時から記者会見を開き、大学関係者を現地に派遣する考えを示した。」