鴨川の河川敷で、大変なものが見つかった。共同通信が伝えた。
「滋賀県は17日、同県高島市安曇川町下小川の琵琶湖近くにある鴨川の河川敷などに木材チップ200~300トンが放置されているのが見つかったと発表した。
これは、一人滋賀県だけの問題ではない。
8000ベクレルでないから、さも問題がないように伝えている。
しかし、それは政府が、法を破って、勝手に決めた数値であり、そのものに、問題があるのだ。
仮に、汚染された瓦礫でなくとも、行政が撤去すべきものだろう。
今まで放置され続けたことを、知事は、なんとも説明するつもりなのだろう。
時代劇で良く出てくる「流れ橋」と言う名前の橋が、架かっている。
「滋賀県は17日、同県高島市安曇川町下小川の琵琶湖近くにある鴨川の河川敷などに木材チップ200~300トンが放置されているのが見つかったと発表した。
県の調査でチップからは、最大で1キログラム当たり3千ベクレルの放射性セシウムが検出された」(2013/9/1 01:20)
4月に住民からの通報があったのに、今頃の処理、発表だ。
4月に住民からの通報があったのに、今頃の処理、発表だ。
嘉田知事は、直ちに会見を開いて、この間の事情を説明すべきだ。
これは、一人滋賀県だけの問題ではない。
今まで、どれほどの雨が降ったと思うのだ。
こんなことは、単に行政の怠慢で済まされることではない。
8000ベクレルでないから、さも問題がないように伝えている。
しかし、それは政府が、法を破って、勝手に決めた数値であり、そのものに、問題があるのだ。
それにしてもまったく、どういうことなのだろう。
写真でみる限り、大量の袋だ。
仮に、汚染された瓦礫でなくとも、行政が撤去すべきものだろう。
今まで放置され続けたことを、知事は、なんとも説明するつもりなのだろう。
しかし、考えてみると、これは、嫌がらせのために、わざと、なされたことなのかもしれない。
そうだとしても、嘉田知事は、脇が甘過ぎる。
こんなことでは、原発反対と言えるのかと、突っ込まれるのがオチだ。
住民も住民だ。
何故もっと早くに、行政に強く、撤去を言わない。
河川敷なら、関係がないのか。
◆ ◆ ◆
私が住んでいるのは、木津川という川が流れている。
◆ ◆ ◆
私が住んでいるのは、木津川という川が流れている。
これも、琵琶湖水系のひとつだ。
時代劇で良く出てくる「流れ橋」と言う名前の橋が、架かっている。
台風などで川が増水すると、橋げたの上の板が流れるようになっている。
後でまたその板を集めて、再び、架けなおすのである。
今でも、時々使われているようだ。
橋の「両端」に、ワイヤーが張ってあるのが、ドラマなどに出てきた時、よく見ると、それが映っていて、すぐに分る。
ここもかなり、広い河川敷がある。
お茶どころということもあり、茶畑が、広がっている。
ここは、国土交通省の管理だ。
何故ここに茶畑が作られているのか、散歩のたびに不思議に思う。
琵琶湖で見つかったような大きな(ゴミ)の不法投棄はないが、ベッドのマットを捨てに来るような人もいる。
他に、自転車、テレビ、小型の冷蔵庫なども、捨てられている。
空き缶、ペットボトルは当然のごとくに、あちこちに散乱している。
高い堤防があり、人眼がないことを思えば、これでもいい方なのだろう。
つい、横道にそれました。元に戻します。
そういう訳で、私にとっては他人事では済まされない。
必ず、嘉田の会見を、見たい。
大坂ではガレキが焼かれ、またこんなことが、起きた。
このブログで、毎日のように東電の事故のことを記事にしているが、まったく予期しないことであった。
地域共同体が崩壊して、こういうことが起きても何の不思議がない世の中になってしまったことを、象徴するような出来事だ。
今でも、時々使われているようだ。
橋の「両端」に、ワイヤーが張ってあるのが、ドラマなどに出てきた時、よく見ると、それが映っていて、すぐに分る。
ここもかなり、広い河川敷がある。
お茶どころということもあり、茶畑が、広がっている。
ここは、国土交通省の管理だ。
何故ここに茶畑が作られているのか、散歩のたびに不思議に思う。
琵琶湖で見つかったような大きな(ゴミ)の不法投棄はないが、ベッドのマットを捨てに来るような人もいる。
他に、自転車、テレビ、小型の冷蔵庫なども、捨てられている。
空き缶、ペットボトルは当然のごとくに、あちこちに散乱している。
高い堤防があり、人眼がないことを思えば、これでもいい方なのだろう。
つい、横道にそれました。元に戻します。
そういう訳で、私にとっては他人事では済まされない。
必ず、嘉田の会見を、見たい。
大坂ではガレキが焼かれ、またこんなことが、起きた。
このブログで、毎日のように東電の事故のことを記事にしているが、まったく予期しないことであった。
地域共同体が崩壊して、こういうことが起きても何の不思議がない世の中になってしまったことを、象徴するような出来事だ。