人の人生には、思わぬことが待ち受けている。
中村天風は、
「人間というものは、堵らに追いかけられて松の木に登り、松に木に上がってみると、上から大きな蛇が来て、身体きわまって足元の蔓に伝わって谷の底の方位以降とぶら下がっていると、その蔦蔓をリスがぼりぼりかじっている、という状態の中で生きているのが、人生の全体の”すがた”である。・・・・
・・・現在がどうもなければ、永久にどうもならない、と思うほど、極めて呑気という以上に緩んでいる気持ちを持っている。もしも金が出来て、地位が高くなったために、幸福になれて、病に罹らず、悪い運命にもならず、また死にもしないというなら、まことにこれは結構づくめであるが、いくら金が出来ようが、地位が高くなろうが、何がどうしようが、そういかないのが人生である」
とのべている。
この本の著者の中村天風に出会ったのは、私がまだ神戸にいたころの事である。
地震に遭う少し前だ。
この本を読んでいたおかげで、押しつぶされた家の下敷きになりながらも、苦痛や恐怖に打ち勝つことが出来た。
その後、たびたび読み返したりもしたが、いつの間にか、手に取らなくなった。
天風に言うように、「我を忘れて、暢気に構えて生きていた」のか、「天罰はテキメン」で、この度の病気で、また苦しむことになった。
まことに人生は油断も隙もならない。
◆
だが、現在の私は、少し違う見方をするようになっている。
「病気を得たこと」を「有り難いと思うようになった」のである。
確かに、手術の後遺症で苦しんではいる。これは事実だ。否定はしない。
もちろん、病気に罹らなかった方が良かった、に決まってもいる。
だが仮に、病気に罹っていなければ、どんな毎日を過ごしていたことであろう。
相変わらず、「毎日飲んだくれていた」のではなかろうか。
たまに、退屈しのぎで本を読んだりすることはしたであろうが、「何も考えずに」ただただ、ぼうーと生きていたことであろう。
世の中の動きも、大して気にもかけようとはしなかったであろう。
また、散歩など、たまにはすることがあっても、身体の事を気遣うことなどしなかったであろう。
第一、パソコンの持つ事さえ考えなかったに相違ない。
ましてや「ブログを持つ」などということは。
とどのつまりは、その日一日が「気楽に過ごせればいい」とばかりに呑気に、構えて毎日を送っていたことであろう。
それが、この病を得たことで、完全に変わった。
「人は変わらない」というがそれは、間違いである。
人は変わる。
であるなら、変える事も出来る。
年を取れば、そんなことはない。人による。状況による。などの反論はあろう。
だが、事実、私は変わった。
変わろうとしないのは、「努力が足りないから」であると思う。
なにも、自慢したい訳ではない。私に出来た、という事実を述べているだけの事である。
「変わらないのが良い」という意見もあろう。
それはそれで、一つの見識であろう。何も反対はしない。
しかし、人生が本当に意味のあるものであるとするなら、「変わる事」はいいことである、と思う。
変わらなけれは、「ウソである」とも思う。
そうでなければ、何のために、「こんな苦しみを味わう」必要があろう。
人間が本当に「知恵を持つ生き物である」なら、「変わる事を恐れることは何もない」と思うのである。
今日より明日、明日より明後日、人は変わってこそ、生きている価値がある、と思う。
≪参考図書≫
中村天風 『運命を拓く』 講談社 1994年
中村天風は、
「人間というものは、堵らに追いかけられて松の木に登り、松に木に上がってみると、上から大きな蛇が来て、身体きわまって足元の蔓に伝わって谷の底の方位以降とぶら下がっていると、その蔦蔓をリスがぼりぼりかじっている、という状態の中で生きているのが、人生の全体の”すがた”である。・・・・
・・・現在がどうもなければ、永久にどうもならない、と思うほど、極めて呑気という以上に緩んでいる気持ちを持っている。もしも金が出来て、地位が高くなったために、幸福になれて、病に罹らず、悪い運命にもならず、また死にもしないというなら、まことにこれは結構づくめであるが、いくら金が出来ようが、地位が高くなろうが、何がどうしようが、そういかないのが人生である」
とのべている。
この本の著者の中村天風に出会ったのは、私がまだ神戸にいたころの事である。
地震に遭う少し前だ。
この本を読んでいたおかげで、押しつぶされた家の下敷きになりながらも、苦痛や恐怖に打ち勝つことが出来た。
その後、たびたび読み返したりもしたが、いつの間にか、手に取らなくなった。
天風に言うように、「我を忘れて、暢気に構えて生きていた」のか、「天罰はテキメン」で、この度の病気で、また苦しむことになった。
まことに人生は油断も隙もならない。
◆
だが、現在の私は、少し違う見方をするようになっている。
「病気を得たこと」を「有り難いと思うようになった」のである。
確かに、手術の後遺症で苦しんではいる。これは事実だ。否定はしない。
もちろん、病気に罹らなかった方が良かった、に決まってもいる。
だが仮に、病気に罹っていなければ、どんな毎日を過ごしていたことであろう。
相変わらず、「毎日飲んだくれていた」のではなかろうか。
たまに、退屈しのぎで本を読んだりすることはしたであろうが、「何も考えずに」ただただ、ぼうーと生きていたことであろう。
世の中の動きも、大して気にもかけようとはしなかったであろう。
また、散歩など、たまにはすることがあっても、身体の事を気遣うことなどしなかったであろう。
第一、パソコンの持つ事さえ考えなかったに相違ない。
ましてや「ブログを持つ」などということは。
とどのつまりは、その日一日が「気楽に過ごせればいい」とばかりに呑気に、構えて毎日を送っていたことであろう。
それが、この病を得たことで、完全に変わった。
「人は変わらない」というがそれは、間違いである。
人は変わる。
であるなら、変える事も出来る。
年を取れば、そんなことはない。人による。状況による。などの反論はあろう。
だが、事実、私は変わった。
変わろうとしないのは、「努力が足りないから」であると思う。
なにも、自慢したい訳ではない。私に出来た、という事実を述べているだけの事である。
「変わらないのが良い」という意見もあろう。
それはそれで、一つの見識であろう。何も反対はしない。
しかし、人生が本当に意味のあるものであるとするなら、「変わる事」はいいことである、と思う。
変わらなけれは、「ウソである」とも思う。
そうでなければ、何のために、「こんな苦しみを味わう」必要があろう。
人間が本当に「知恵を持つ生き物である」なら、「変わる事を恐れることは何もない」と思うのである。
今日より明日、明日より明後日、人は変わってこそ、生きている価値がある、と思う。
≪参考図書≫
中村天風 『運命を拓く』 講談社 1994年