柳田國男『火の昔』Ⅵ (カマド:おかま・へつい、庭カマド、コンロ)
1)おかまとへつい
囲炉裏がだんだんとすたれてきて、そのかわりにカマドが現れてきたように思うのは、間違っている。古い記録の中に出ているのは、へついとかまどのほうがずっと前からである。
炉は、大昔からなくてはならないもので、ただ名前だけが変わって来ているだけのことである。ロという言葉の始める前には、火ドコという名前で呼ばれていたと思われる。
日本海の沿岸地方では、西は山陰から東は越後にかけて、今でも飛び飛びにこの名が残っている。
あるいは火ジロという言い方あったとみえて、東京の近くでは山梨・長野の一部から、飛び飛びにずっと南の島々まで、炉を火ジロと言っている所がある。
シロは苗代や網代などのシロも同じに、火をたくべきところという意味である。
どちらにしても、炉とまかどはそれぞれに別のもので、どちらも無くてはならないものであった。そしてその目的は今でもはっきりと区別することができる。
炉は、ただ火を焚いてあたるところ、したがって冬の寒い時だけにしかいらぬものであった。が、それ以外にも儀式として火をたくべき日があり、ことに夜分に集まって起きていなければ成らぬ時には、灯りのためにも燃やす必要があった。
沖縄では、一年中、火にあたるほどの寒さは知らないはずだが、それでも大きな家には必ず正式の火ジロがあって、それをお火バチと呼んでいる。ここで火をたくのは、お産の時などであった。
対して、カマドのほうは、いうまでもなく食物を煮炊きする所で、何も煮る物がないのにここで火をたくことはよくない事にように言う人さえある。
そして、その煮物というのは、正式の、神にも供え申し、人々とともに食べるもののことであって、一人が臨時に勝手に食べるもなら、炉の火でも、また外のたき火でも焼いていたであろう。
しかし、少なくともあらたまった食事だけは、カマドで調理しなければ価値がないように考えられており、一つカマドの物を食べるということは、一家一門の者のことであった。
そのためにまた、この火を清く保つということに、ひとかたならぬ苦心があった。
黄泉戸喫(よもつへぐい)という神代の物語は--このカマドの火が汚れると、その食物を食べた人と、ただの人とは、付き合う事ができない。そういう内容である。
だから、カマドの管理を厳重にし、汚れの有る人が清いカマドに近寄ることを警戒した。今でも田舎を歩いてみると、釜屋と称してカマドがある小屋だけを別棟にして、家の片脇に放して建てている。
家屋の建築が大きくなって、何もかも主屋の中へ入れるようになってからでも、カマドは他人に出入りの多い上り口から遠くに置いて、出来るだけ素性の分からない人を寄せ付けまいとしている。
カマドをそれほどまでに考えていたのは、その起こりはまったく火の汚れを防ぎ、神にも供える食物の清浄を、保とうとした習わしからであった。
人の暮らしに変化が起き、飲食の種類や回数が多くなってくると、カマドの火ばかりを当てにしておれなくなり、炉の鉤がおいおいと忙しくなり始めてきた。
イモとか団子とかを灰の中にほうりこみ、また串に刺して魚をあぶるなどと言う事は、早い頃からただたき火の側でもしていたであろうが、鍋とか鑵子(かんす=湯沸かし器)とかのつるをさげて、掛けたり外したりするものが、盛んに使われるようになったのは後のことと思われる。
たとえばお茶を煎じて飲む習慣も、今とはだいぶ形式が違うが、ともかくも鎌倉時代の初め頃から、ぽつぽつと流行し出したと言われている。それより以前には、わざわざ湯を沸かして飲むことは多分なかった事であろうから、飲食のための炉を使う事は少なかったであろう。
それより大きな変化は、鍋で今のような御飯がたけるようになったことである。
これはせいろうを用いた蒸し物の飯(いい)よりも、ずっと方法が手軽であるから、最初は小屋の生活をした人々が改良したもの(=後述)であろうが、彼らは必ずしも米を食べるとは限らなかった。
必ず米を食事にしたと思われるのは、狩りの日または宮木切り、それから戦争の陣屋の中に日を送る時などであった。
陣中には、こしきやせいろうを携えることは不便なので、いわゆる男焚きの飯はおいおいと改良され、後には粥でもみぞうずでもないしっかりとした米の飯が、炉の火でも焚けるようになって、これを普通の飯とみるようになった。私(=柳田)は、このように想像している。
米の飯は、昔から常食と言われているにもかかわらず、その焚き方が地方によって、まちまちである。これは、近世の普及であった証拠だろう。
飯の炊き方の一番新しいのは、羽のついたかまに重い大きな蓋を載せて、カマドにかけてたくいわゆる釜の飯である。
つまり、今日の米の飯は、いったんへっついを別れて炉の上で発達したものだったのが、もう一度またもとの場所へもどてきたので、この間に人々の考えに大きな変化が起きていた。
今日では、炉があればカマドはいらぬと思う者と、炉は無くてもカマドさえあれば善いと思う者ばかりが多くなって、この二つは何だが二重のように感じられている。
2)庭カマドの変遷
新しく建築される日本の家では、土間の真ん中にカマドを築くものが、もうしだいに少なくなろうとしている。
これは地面が小さくなり、建坪一杯に床を張ろうとすることも原因であるが、それよりもっと大きな理由は、何のために庭カマドをこしらえて置くのかを、説明できなくなったからだ。
京都や大阪の町屋、また東京でも大正の震災までのものには、随分窮屈な思いをしても、尚かまどを土間の壁に寄せてこしらえた物が幾つもあり、それへの出入りをする人のために、まるでウナギの廊下のような狭い長い庭が通っていた。
これは、御飯を炊くカマドを引き離して内庭に作らないと、本式の家でないような感じが、長く残っていたためである。
京都だけは千年以上の古い都であるが、その他の日本の大都会は、どれもこれも新しいものばかりある。わりに古い方でも、300年か400年たらずで、それも初めにうちはひろびろと、田舎同様の住居をしていた。
今でも府県の小さな都市で、家の間口の十分に採れるところでは、農村に負けないような立派なカマドを内庭に置いて、それを光るほど磨き上げている。
最初の主な市民は、皆そういう大きな百姓が引越ししてきたものであり、ことに隣同士知らぬ人がすむようになると、これ以前の生活の記念物として、いまでも保存して置いて見せたがったのである。
農村・漁村では、この庭カマドが無くても済む家々が以前からたくさんあった。これを称して、昔言葉で小屋と言った。
小屋は必ずしも建物が小さいというだけでなく、これに対する大屋というものが中心にあって、祭りや祝い事は必ず共同で行うので、正式の食事は皆その大屋に集まって、そこの庭カマドで調理いたものを食べたので、別々にかまどを備える必要はなかった。
分家、しん屋、へや、隠居などという、一門のまわりに住むものも、もとはたいていはこれであり、それ以外にも名子とか門屋とかいう出入りのすじの物も、この小屋であった。
遠い田畑や山林に仮屋をかけて臨時に出て働いている者ももちろん帰ってきた。大屋・本屋の庭カマドの役目は、儀式のある日には大変大きかった。
炉の鉤になべを掛けて今のような御飯を炊くことができなかった時代には、正月の節句などの祝いの日でなくとも、本家で食事をする機会がずっと多く、めいめいの小屋ではいたって、簡略な、飯とも言えないようなものしか食べていなかったと、推察される。
が、だんだんにーーふかし物といって、せいろうで蒸して作った強飯(こわいい=”赤飯、のこと?投稿者」”)を、神にも供え先祖にもまた人びとをも、もてなす回数がめっきりと減った。
餅だけは1年に少なくとも一度、本家に集まって庭カマドを使う日が、今でもまだ慣例として残っているが、この方はむしろ新しいことであり、以前はめいめいの小うすで穀物を粉にはたき、それを捏(こ)ねたものを茹でたり焼いたりしていた。
また、かまどを使わずとも少しの蒸し物なら、炉でも出来る様に成ったことである。平鍋に湯を沸かして、そのまん中に足の付いた桶甑(おけごしき)を置くと、湯気がまわって赤飯(おこわ)をふかすことができる。
これでは大きな一門の協同の食事は作れないから、本家の庭カマドに頼らずに行こうとした者が、考案したことであろう。
他方で、カマドを作る事も簡単になり、新しく内庭にカマドを設ける家がおいおいと増えてきた。ことに、新しい分家には、最初からカマドを備えて与えることが普通のようになり、これと本家の格式とは、何の関係もないもののように考えられるようになってきた。
東北の北の端では、分家することを「カマドを立てる」といい、本家をオヤカマドというばかりか、分家を家来カマドという言葉さえ出来ている。
中部以西の最も普通のカマドは、現在は三つカマド、少し福福しい家では五つカマド、まれには七つカマド、というのもあって、それが一続きの扇型に連なって、一人で火の番をしながら皆焚けるようにできている。
カマが三つだと飯ガマと茶ガマと鍋であるが、五つ以上になれば一方の端は一段と高く、また直径も大きいかまをかけて、磨いておくだけで普段の日には、使わない。
これが上代以来、ヘツイの名で尊ばれた大切な食事のために後から次々とつけそえられたものである。
こういう訳で、選り好みしなければ、この場所で毎日の炊事は用が足りて、イロリはもう一度昔に戻り、人がただ座って火にあたっている所になって、夏春はもとより、冬の最中でも、外で働く人の多い家では、ここを冷たい灰だけにしておいてもよく、火止めの苦労はほとんど無用になった。
3)コンロ
カマドは2千年以上の大昔から、今迄続いて使われている日本語であるが、名前はもとのままであっても、いつの間にか、随分変化てきた。
最初は多分居間にあるいろりと、形はそれほど変わらぬ火たき場であって、ただこっちは食物の調理のために、何か簡単な装置がしてあたっただけの違いであると思う。
カマドのカマも、へついのへも、ともに煮炊きをする器物のことのようであるらしいから、最初は3本の石を中央に立ててカマをのせる台にするとか、または鉄輪(かなわ)のもとになるように丸い輪を石で作って、火の上に置いていたのであろう。
それは今でも野外で物を調理する時に、3本の木を上のほうで束ねて足を広げ、綱を上から下げて鍋などを吊るすが、これと近いようなこともしていたであろう。
炉の鉤もはじめはカマドの上に下がっていたのが、だんだんと炉のほうでも使われるようになったとも考えられる。
カマドでも、以前はまわりに人が集まって火にあたることができたようで、炉との違いは主人が出てきて、横座に座ることが無かったことである。
カマドの改良が進み、以前はめったに場所を変える事が出来なかったのとは反対に、今日のカマドは初めから勝手に動かすようにできている。これだけは、著しい変化である。
カマドが出来合いの商品となった頃から、土製とか金属製とかの便利なカマドがいつでも買い整えられるようになって、引っ越しにもそれを本歩くようになった。
すなわち、最早カマドは、家屋の一部分ではなく、単なる家財道具の一つになった。
参考文献
1)『柳田國男 全集 14』 筑摩書房
2)日本民俗建築学会編 「(図説)民俗建築大辞典 』 柏書房
3)日本民俗建築学会編 『日本の生活環境文化大辞典』 柏書房
4)宮崎玲子著 『オールカラー 世界台所博物館』 柏書房
5)大館勝治・宮本八恵子著『「今に伝える」農家のモノ・人の生活館』柏書房
6)柏木博・小林忠雄・鈴木一義編『日本人の暮らし 20世紀生活博物館』講談社
(2018年9月1日)
1)おかまとへつい
囲炉裏がだんだんとすたれてきて、そのかわりにカマドが現れてきたように思うのは、間違っている。古い記録の中に出ているのは、へついとかまどのほうがずっと前からである。
炉は、大昔からなくてはならないもので、ただ名前だけが変わって来ているだけのことである。ロという言葉の始める前には、火ドコという名前で呼ばれていたと思われる。
日本海の沿岸地方では、西は山陰から東は越後にかけて、今でも飛び飛びにこの名が残っている。
あるいは火ジロという言い方あったとみえて、東京の近くでは山梨・長野の一部から、飛び飛びにずっと南の島々まで、炉を火ジロと言っている所がある。
シロは苗代や網代などのシロも同じに、火をたくべきところという意味である。
どちらにしても、炉とまかどはそれぞれに別のもので、どちらも無くてはならないものであった。そしてその目的は今でもはっきりと区別することができる。
炉は、ただ火を焚いてあたるところ、したがって冬の寒い時だけにしかいらぬものであった。が、それ以外にも儀式として火をたくべき日があり、ことに夜分に集まって起きていなければ成らぬ時には、灯りのためにも燃やす必要があった。
沖縄では、一年中、火にあたるほどの寒さは知らないはずだが、それでも大きな家には必ず正式の火ジロがあって、それをお火バチと呼んでいる。ここで火をたくのは、お産の時などであった。
対して、カマドのほうは、いうまでもなく食物を煮炊きする所で、何も煮る物がないのにここで火をたくことはよくない事にように言う人さえある。
そして、その煮物というのは、正式の、神にも供え申し、人々とともに食べるもののことであって、一人が臨時に勝手に食べるもなら、炉の火でも、また外のたき火でも焼いていたであろう。
しかし、少なくともあらたまった食事だけは、カマドで調理しなければ価値がないように考えられており、一つカマドの物を食べるということは、一家一門の者のことであった。
そのためにまた、この火を清く保つということに、ひとかたならぬ苦心があった。
黄泉戸喫(よもつへぐい)という神代の物語は--このカマドの火が汚れると、その食物を食べた人と、ただの人とは、付き合う事ができない。そういう内容である。
だから、カマドの管理を厳重にし、汚れの有る人が清いカマドに近寄ることを警戒した。今でも田舎を歩いてみると、釜屋と称してカマドがある小屋だけを別棟にして、家の片脇に放して建てている。
家屋の建築が大きくなって、何もかも主屋の中へ入れるようになってからでも、カマドは他人に出入りの多い上り口から遠くに置いて、出来るだけ素性の分からない人を寄せ付けまいとしている。
カマドをそれほどまでに考えていたのは、その起こりはまったく火の汚れを防ぎ、神にも供える食物の清浄を、保とうとした習わしからであった。
人の暮らしに変化が起き、飲食の種類や回数が多くなってくると、カマドの火ばかりを当てにしておれなくなり、炉の鉤がおいおいと忙しくなり始めてきた。
イモとか団子とかを灰の中にほうりこみ、また串に刺して魚をあぶるなどと言う事は、早い頃からただたき火の側でもしていたであろうが、鍋とか鑵子(かんす=湯沸かし器)とかのつるをさげて、掛けたり外したりするものが、盛んに使われるようになったのは後のことと思われる。
たとえばお茶を煎じて飲む習慣も、今とはだいぶ形式が違うが、ともかくも鎌倉時代の初め頃から、ぽつぽつと流行し出したと言われている。それより以前には、わざわざ湯を沸かして飲むことは多分なかった事であろうから、飲食のための炉を使う事は少なかったであろう。
それより大きな変化は、鍋で今のような御飯がたけるようになったことである。
これはせいろうを用いた蒸し物の飯(いい)よりも、ずっと方法が手軽であるから、最初は小屋の生活をした人々が改良したもの(=後述)であろうが、彼らは必ずしも米を食べるとは限らなかった。
必ず米を食事にしたと思われるのは、狩りの日または宮木切り、それから戦争の陣屋の中に日を送る時などであった。
陣中には、こしきやせいろうを携えることは不便なので、いわゆる男焚きの飯はおいおいと改良され、後には粥でもみぞうずでもないしっかりとした米の飯が、炉の火でも焚けるようになって、これを普通の飯とみるようになった。私(=柳田)は、このように想像している。
米の飯は、昔から常食と言われているにもかかわらず、その焚き方が地方によって、まちまちである。これは、近世の普及であった証拠だろう。
飯の炊き方の一番新しいのは、羽のついたかまに重い大きな蓋を載せて、カマドにかけてたくいわゆる釜の飯である。
つまり、今日の米の飯は、いったんへっついを別れて炉の上で発達したものだったのが、もう一度またもとの場所へもどてきたので、この間に人々の考えに大きな変化が起きていた。
今日では、炉があればカマドはいらぬと思う者と、炉は無くてもカマドさえあれば善いと思う者ばかりが多くなって、この二つは何だが二重のように感じられている。
2)庭カマドの変遷
新しく建築される日本の家では、土間の真ん中にカマドを築くものが、もうしだいに少なくなろうとしている。
これは地面が小さくなり、建坪一杯に床を張ろうとすることも原因であるが、それよりもっと大きな理由は、何のために庭カマドをこしらえて置くのかを、説明できなくなったからだ。
京都や大阪の町屋、また東京でも大正の震災までのものには、随分窮屈な思いをしても、尚かまどを土間の壁に寄せてこしらえた物が幾つもあり、それへの出入りをする人のために、まるでウナギの廊下のような狭い長い庭が通っていた。
これは、御飯を炊くカマドを引き離して内庭に作らないと、本式の家でないような感じが、長く残っていたためである。
京都だけは千年以上の古い都であるが、その他の日本の大都会は、どれもこれも新しいものばかりある。わりに古い方でも、300年か400年たらずで、それも初めにうちはひろびろと、田舎同様の住居をしていた。
今でも府県の小さな都市で、家の間口の十分に採れるところでは、農村に負けないような立派なカマドを内庭に置いて、それを光るほど磨き上げている。
最初の主な市民は、皆そういう大きな百姓が引越ししてきたものであり、ことに隣同士知らぬ人がすむようになると、これ以前の生活の記念物として、いまでも保存して置いて見せたがったのである。
農村・漁村では、この庭カマドが無くても済む家々が以前からたくさんあった。これを称して、昔言葉で小屋と言った。
小屋は必ずしも建物が小さいというだけでなく、これに対する大屋というものが中心にあって、祭りや祝い事は必ず共同で行うので、正式の食事は皆その大屋に集まって、そこの庭カマドで調理いたものを食べたので、別々にかまどを備える必要はなかった。
分家、しん屋、へや、隠居などという、一門のまわりに住むものも、もとはたいていはこれであり、それ以外にも名子とか門屋とかいう出入りのすじの物も、この小屋であった。
遠い田畑や山林に仮屋をかけて臨時に出て働いている者ももちろん帰ってきた。大屋・本屋の庭カマドの役目は、儀式のある日には大変大きかった。
炉の鉤になべを掛けて今のような御飯を炊くことができなかった時代には、正月の節句などの祝いの日でなくとも、本家で食事をする機会がずっと多く、めいめいの小屋ではいたって、簡略な、飯とも言えないようなものしか食べていなかったと、推察される。
が、だんだんにーーふかし物といって、せいろうで蒸して作った強飯(こわいい=”赤飯、のこと?投稿者」”)を、神にも供え先祖にもまた人びとをも、もてなす回数がめっきりと減った。
餅だけは1年に少なくとも一度、本家に集まって庭カマドを使う日が、今でもまだ慣例として残っているが、この方はむしろ新しいことであり、以前はめいめいの小うすで穀物を粉にはたき、それを捏(こ)ねたものを茹でたり焼いたりしていた。
また、かまどを使わずとも少しの蒸し物なら、炉でも出来る様に成ったことである。平鍋に湯を沸かして、そのまん中に足の付いた桶甑(おけごしき)を置くと、湯気がまわって赤飯(おこわ)をふかすことができる。
これでは大きな一門の協同の食事は作れないから、本家の庭カマドに頼らずに行こうとした者が、考案したことであろう。
他方で、カマドを作る事も簡単になり、新しく内庭にカマドを設ける家がおいおいと増えてきた。ことに、新しい分家には、最初からカマドを備えて与えることが普通のようになり、これと本家の格式とは、何の関係もないもののように考えられるようになってきた。
東北の北の端では、分家することを「カマドを立てる」といい、本家をオヤカマドというばかりか、分家を家来カマドという言葉さえ出来ている。
(11連続カマド) |
カマが三つだと飯ガマと茶ガマと鍋であるが、五つ以上になれば一方の端は一段と高く、また直径も大きいかまをかけて、磨いておくだけで普段の日には、使わない。
これが上代以来、ヘツイの名で尊ばれた大切な食事のために後から次々とつけそえられたものである。
こういう訳で、選り好みしなければ、この場所で毎日の炊事は用が足りて、イロリはもう一度昔に戻り、人がただ座って火にあたっている所になって、夏春はもとより、冬の最中でも、外で働く人の多い家では、ここを冷たい灰だけにしておいてもよく、火止めの苦労はほとんど無用になった。
3)コンロ
カマドは2千年以上の大昔から、今迄続いて使われている日本語であるが、名前はもとのままであっても、いつの間にか、随分変化てきた。
最初は多分居間にあるいろりと、形はそれほど変わらぬ火たき場であって、ただこっちは食物の調理のために、何か簡単な装置がしてあたっただけの違いであると思う。
カマドのカマも、へついのへも、ともに煮炊きをする器物のことのようであるらしいから、最初は3本の石を中央に立ててカマをのせる台にするとか、または鉄輪(かなわ)のもとになるように丸い輪を石で作って、火の上に置いていたのであろう。
それは今でも野外で物を調理する時に、3本の木を上のほうで束ねて足を広げ、綱を上から下げて鍋などを吊るすが、これと近いようなこともしていたであろう。
炉の鉤もはじめはカマドの上に下がっていたのが、だんだんと炉のほうでも使われるようになったとも考えられる。
カマドでも、以前はまわりに人が集まって火にあたることができたようで、炉との違いは主人が出てきて、横座に座ることが無かったことである。
カマドの改良が進み、以前はめったに場所を変える事が出来なかったのとは反対に、今日のカマドは初めから勝手に動かすようにできている。これだけは、著しい変化である。
カマドが出来合いの商品となった頃から、土製とか金属製とかの便利なカマドがいつでも買い整えられるようになって、引っ越しにもそれを本歩くようになった。
すなわち、最早カマドは、家屋の一部分ではなく、単なる家財道具の一つになった。
参考文献
1)『柳田國男 全集 14』 筑摩書房
2)日本民俗建築学会編 「(図説)民俗建築大辞典 』 柏書房
3)日本民俗建築学会編 『日本の生活環境文化大辞典』 柏書房
4)宮崎玲子著 『オールカラー 世界台所博物館』 柏書房
5)大館勝治・宮本八恵子著『「今に伝える」農家のモノ・人の生活館』柏書房
6)柏木博・小林忠雄・鈴木一義編『日本人の暮らし 20世紀生活博物館』講談社
(2018年9月1日)
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