2018年8月30日木曜日

柳田國男『火の昔』Ⅴ囲炉裏(自在鉤、鉄輪)

囲炉裏(自在鉤、鉄輪、)
1)火を焚く楽しみ
日本の平たい炉辺は、煙が家一杯になるのは困るが、それでも並んでいて、お互いの顔をが残らず見られるのは都合の良い事で、
その顔が赤々と焚き火に移るのであるから、これでこそ一家団欒という言葉が掛け値なしに通用する。

路地で火を焚いていた大昔の夜を考えると、これがいちばんその古い形式に近いと思われ、家の中に床を張って住むようになってから後も、なおなんとかして最初の集まり方を続けたいものと苦心した結果が、こういう囲炉裏の形になったと思われる。

人が近くに顔を見合わせながら、続けて物を言うようになった始まりは、たき火のそばかもしれない。話と炉辺との因縁は深いものがあったと思われる。



2)自在鉤

炉の鉤には秋葉・愛宕の火伏せの御札などを結わえつけた家もこの頃はあるが、これはまったく新しい風習で、鉤には家の神の霊が、初めから宿ってござるものと思っていたのであるから、そんなことをする必要はなかった。

それゆえにまた常日頃から、家ではこの鉤を大事にしていた。今でも堅い人はかぎどのかぎつけさま・またはオカンさまなどと敬称でよび、これに手をかけるものは決まっていて、それもできるだけ静かにさわる。

子供がもしうっかりゆすぶったりすると、大きくなって海の旅をする時に、船がゆれるといって戒めるほどであった。そして、その形のあれこれを、相応に気にかけてもいた。


木で一尺ほどの魚を彫刻したものを、鉤の中ほどに綱で取り付けていることで、魚は水に属するから火の用心になるのだという説もあり、またわざわざ水という文字を彫った板を魚の代わりに用いる家さえあるが、私(=柳田)はそうは信じていない。

むしろ絵馬のように本物の魚の代わりに、炉の神のお目を喜ばせ申す趣意かと考えている。

どちらにしても、この魚の頭の方向は、一定していた。長崎方面では出鉤入魚ということわざさえあって、炉の鉤の端は家の戸口のほうへ、魚は反対に奥の方へ向かねばならぬものとしている。

中部地方にも北向き鮒、または上鮒とも入鯛ともいうながあって、どれも外から入ってくる形を予期していた。

この木鯛木鮒は、炉の神の昔の信仰を考えてみるのに、ひとつのよい手がかりになる。が、これも、改良であって、最初からこういう方式があったわけではない。

自在が、実際にこの形になるまでには、相当に長い年月が必要であった。

最も進んだやり方は、太い竹の節をくりぬいて、二本の鉄の棒とクサリを中に通し、一方を突き上げると、他方が重みで下がるようにしたもので、よほど低くしても、鉤のはなは焦げずに、したがって少ない燃料で物を煮ることができた。

しかし、これは鍛冶屋が近くに来て住むようにならないと、こんな道具は注文することができなかった。

だから、以前には、簡単な木の板をつけて、綱を捩じらせて二つの穴に通し、鉤の高さを程よい所に止めるやり方が、普通であった。それでも、まだ、著しい進歩であった。

3)鉤から鉄輪へ

これより以前は、細くて丈夫な板に、ギザギザを幾つも切り込んだものを、鉤の木の中ほどに縛り付けておいて、下から鉤の先の綱を輪にしたのを持って行って引っかけるやり方で、高さは切込みの数だけ加減することができた。

しかし、これもノコギリがないとできないから、もとは長い木のところどころに枝を残し、そこへ下の輪をかけたものであっただろう。

今一つは、綱も無くて、木の枝の鉤に直接なべのつるを引っかけるだけの、全く自在でないものを用いた時もあった、と考えられる。

五徳五徳というものが用いられたのも、最初は炉の片隅で、早速に少しのお湯を沸かすためなどであっただろうが、後の後にはまったく今迄の自在鉤を止めてしまって、まん中に大きなのを一つ、据えておくようになった。

五徳というのは商品の効能を宣伝した、商人の作った名であろう。中世以来の正しい日本語はカナワ、文字では鉄輪と書いていた。現在では、この鉄輪が、全国的に普及していっているようだ。

4)火正月

全体の人が炉の周りに集まって暮らすとき、すなわち正月の後先には古くからの行事が多く、それがまた子供の経験に深く刻まれて残るものばかりであった。

大晦日の年越しの晩には、とうほうもなく大きな火をたくのが、もとは日本の南北にかけての普通の習慣で、屋根裏が見える程宅などといっていました。

人が大勢いるので火事にはならないが、火棚のすすなどに燃えついて、火の子になることがおりおりあった。そうすると鼻をこすれこすれと、一同がそろって鼻をこすると消えたなどいうことが、古い書物に書いてある。

正月14日の晩は、花正月ともいって、木を削って多くの飾り物を作る日であった。子供も同じ木で祝い棒をこしらえて貰い、次の日にはこれで遊んだ。

また、大人たちが真剣にしたのは、月占という炉の火の行事があった。

ホダが、赤々ともえあがってから、横座の前の灰をきれいにかきならして、そこへくり、くるみ、あずき、などを月の数だけならべて、灰になった分はその月は晴れが続き、黒いままのこるようであればその月は雨が多い。ふくれ上がるようだと、風が多いなど。それに応じて一年の播きものの計画を立てることにしていた。

参考文献

1)『柳田國男 全集 14』 筑摩書房
2)日本民俗建築学会編 「(図説)民俗建築大辞典 』 柏書房 
3)日本民俗建築学会編 『日本の生活環境文化大辞典』 柏書房
4)宮崎玲子著 『オールカラー 世界台所博物館』 柏書房
5)大館勝治・宮本八恵子著『「今に伝える」農家のモノ・人の生活館』柏書房
6)柏木博・小林忠雄・鈴木一義編『日本人の暮らし 20世紀生活博物館』講談社

(2018年8月30日)

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