Ⅳ 囲炉裏(炉辺の作法、下座と木じり)
1)炉辺の作法
炉が火鉢となり、炬燵となった頃から、家というものものの形が少しづつ改まり、ことに女性の職分と権能とが、以前とは違ってきている。
炉は正月の祝い事の中心であったばかりでなく、家そのものの組織の上にも、大きな役目を持っていた。それには,イルという言葉に注目するのがよい。
人が生きている姿は、外部からこれを観察して見れば、立つか寝るか居るか、この三通りしかない。
そして、この中でも、立つは色々と大きな働きをした。それに比べると、他の二つは、時も少なく、また、半分は休養に過ごしたが、それでも我々の精神生活は、受けるにも与えるにも、大抵この二つの中でしていたので、それを目的に設けられたものが、私たちの家である。
家はそれ故に決まっている場所があった。
あらたまった儀式をあげ、または貴人を歓待する場合には、デイ(出居)の間を使うが、日常は中央の一番大きい中の間に、家の者は集まっており、また普通の客にもここであった。
東北地方ではここをジョウイ(常居)といい、九州方へ行くとナカイ(中居)ともオマエとも、ゴンゼン(御前)などといっている。
イマ(居間)というのはもとはここのことであったが、後には主人主婦の私室の名になって、みんな集まってお茶を飲むところから、後にはここを茶の間というのが普通になった。
茶の間には今日は長火鉢などが置いてあるが、それは昔の生活の痕跡というもので、以前はこの広間のやや台所よりに、必ず大きな炉が切ってあって、家中の者はそのまわりに、互いに顔を見合っていた。
囲炉裏というのは、おかしな当て字で、炉を囲むまでは先ず当たっているとしても、裏の字がちっとも分からない。
これはたぶん、イルという動詞から出た言葉で、もとはイルイとでも言っていたのが、後にこの様な漢字を当てたばかりに、イロリが正しくて他は皆誤りのように言う人がおおくなったものと、私(=柳田)は考えている。
実際に各地の方言を調べてみると、ユリイ・イルイというふうに言っている人も少なくない。
イロリの四方には、そこに居るべき人の座がちゃんと決まっていた。
土間に面して上り口から最も遠い席が、主人の座である。ここだけは畳が一帖横に敷かれてあったために、上座とも言わずに横座というのが全国ほぼ一様の名前になっていた。
まれには、亭主座とか親座敷とか、旦那イドとかいう地方があるだけである。
これに対して、横座の左右、すなわち普通は長方形の炉の長い方の両側には、ゴザが縦に敷いてあった。その片方を立て座と言う名もあるが、ここが外から来る客の座である。
これは、家の表口に近い席で、ーー大抵の家は南向きに建っているのでーーこれを南座とも言ったが、普通には客座であり、寄り座・ヨリツキとも、マリトともヒト座敷ともいう地方がある。
マリトは、まれびと即ち客人の古語であって、そんな古い頃からもう客人の座が決まっていた。
また、この座をムコ座とも、アニ座とも男入れともいうことがある。
アニというのも、この場合は家の長男のことではなく、やはり、新ムコが初見参に日に、舅にもてなされてその側近くにすわり、また花嫁と晴れて顔を見合わせる席でもあったので、こういう名が生まれたものと思われる。
嫁入り前の若い女性たちは、ちょうどこの男入れの対岸、やや斜めの座に座っていました。もちろんその上席には、主人の横座に近く、主婦の座はちゃんと決まっていた。
世を譲った女親は隠居に住み、または別に小さな炉を切ってそこに住むが、その場に居合わせると主婦の次に坐った。
たいていこの座は、家のすべての女性たちの座る席となっていたらしいが、上座の者が代表してここをかか座・うば座・または女房入れなどとも呼んだ。
土地土地で色々な名がつけられている。
男座に対して女座・オナゴザまたはメロジャ。南座に対して西座。福井では、主婦の座をたき座、富山ではスウダキワというのも、火たき座のなまりであろう。
広島の北部では、オモヒジリという、これも主な日に火をたく所ということだろう。
かか座でする事に決まっていたのは、お茶をこしらえることで、それで、岡山地方では茶せん座、山口県から九州一帯では、茶煮座、または茶飲座というものが多い。
最も大切なことは、ここで食物を取り分けて出す事で、したがってその名を付けたものが多い。丹波・但馬ではオナゴ座をなべ座、美濃の山中ではなべじろと言っている。
2)下座と木じり
残りの席、横座の向かい側は、板敷きであり、畳もござも敷かれていない。大きな家なら、下男下女、出入りの者などがここに座った。
それで、すえ座ともシモイリともゲスイともいう。九州の南ではデカン座とも言っている。デカン座は代官であるが、ここでは農僕のことをこのようによんだ。
普通の家では、そこは使わずにあけておいて、アケトモとも、取り残しともいう人がいた。そして、お産をし女房をここで休ませる風習もあり、ここを子持ちジロとも言っている。
神棚と仏壇とは、多くの家では主人の座っている横座のすぐ後ろにあり、この間を女には決して通らせぬ家もあった。若い女房が下座に座っていると、自然に幼な子もそこによってくる。それで、アコジャ、コイドと呼ぶ所もある。
下座は、木を焚くと煙りが自然と流れてくる。それで、ここをトグチ、たきものじり、ホダじりとも呼ぶ地方がある。
炉端の座席の中で、近頃まで一番厳重に守られていたのは、主人主婦の座で、以前はこの席を譲るべき相手というのは、菩提樹の和尚ぐらいなもので、隠居の親が来ても大抵は並んで座った。
主婦の座も同じように、大切なものとされた。杓子を渡すといって、家と世帯を引き継いでしまった姑なども、たまたま同じ火にあたる時には、やはり主婦の次に坐ろうとした。
それでも無理にでも上座の方へ、勧めて座らせるようにことが、今でも優しい女の心がけになっている。いまでは、私たちの礼儀が、主として生きている人と人だけの間だけに、限られる様に考えられるようになって来たからである。
以前には家の中の決まりがあきらかになっていて、皆がおのおのその所に安んじている有様を、先祖の神霊が炉の上の高い所から喜んで見ておられると思うものが多かったので、道理をわきまえた老人などは、決して主人主婦より上には坐ろうとはしなかった。
だから、正月の節に日とか、あらたまった祝い事などの日には、人情を抑えてでもこの座敷の作法をきちんと守った。
(加藤登紀子の唄が気になる方は、音声を消してお楽しみ下さい)
参考文献
1)『柳田國男 全集 14』 筑摩書房
2)日本民俗建築学会編 「(図説)民俗建築大辞典 』 柏書房
3)日本民俗建築学会編 『日本の生活環境文化大辞典』 柏書房
4)宮崎玲子著 『オールカラー 世界台所博物館』 柏書房
5)大館勝治・宮本八恵子著『「今に伝える」農家のモノ・人の生活館』柏書房
6)柏木博・小林忠雄・鈴木一義編『日本人の暮らし 20世紀生活博物館』講談社
(2018年8月29日)
1)炉辺の作法
炉が火鉢となり、炬燵となった頃から、家というものものの形が少しづつ改まり、ことに女性の職分と権能とが、以前とは違ってきている。
炉は正月の祝い事の中心であったばかりでなく、家そのものの組織の上にも、大きな役目を持っていた。それには,イルという言葉に注目するのがよい。
人が生きている姿は、外部からこれを観察して見れば、立つか寝るか居るか、この三通りしかない。
そして、この中でも、立つは色々と大きな働きをした。それに比べると、他の二つは、時も少なく、また、半分は休養に過ごしたが、それでも我々の精神生活は、受けるにも与えるにも、大抵この二つの中でしていたので、それを目的に設けられたものが、私たちの家である。
家はそれ故に決まっている場所があった。
あらたまった儀式をあげ、または貴人を歓待する場合には、デイ(出居)の間を使うが、日常は中央の一番大きい中の間に、家の者は集まっており、また普通の客にもここであった。
東北地方ではここをジョウイ(常居)といい、九州方へ行くとナカイ(中居)ともオマエとも、ゴンゼン(御前)などといっている。
イマ(居間)というのはもとはここのことであったが、後には主人主婦の私室の名になって、みんな集まってお茶を飲むところから、後にはここを茶の間というのが普通になった。
茶の間には今日は長火鉢などが置いてあるが、それは昔の生活の痕跡というもので、以前はこの広間のやや台所よりに、必ず大きな炉が切ってあって、家中の者はそのまわりに、互いに顔を見合っていた。
囲炉裏というのは、おかしな当て字で、炉を囲むまでは先ず当たっているとしても、裏の字がちっとも分からない。
これはたぶん、イルという動詞から出た言葉で、もとはイルイとでも言っていたのが、後にこの様な漢字を当てたばかりに、イロリが正しくて他は皆誤りのように言う人がおおくなったものと、私(=柳田)は考えている。
実際に各地の方言を調べてみると、ユリイ・イルイというふうに言っている人も少なくない。
イロリの四方には、そこに居るべき人の座がちゃんと決まっていた。
土間に面して上り口から最も遠い席が、主人の座である。ここだけは畳が一帖横に敷かれてあったために、上座とも言わずに横座というのが全国ほぼ一様の名前になっていた。
まれには、亭主座とか親座敷とか、旦那イドとかいう地方があるだけである。
これに対して、横座の左右、すなわち普通は長方形の炉の長い方の両側には、ゴザが縦に敷いてあった。その片方を立て座と言う名もあるが、ここが外から来る客の座である。
これは、家の表口に近い席で、ーー大抵の家は南向きに建っているのでーーこれを南座とも言ったが、普通には客座であり、寄り座・ヨリツキとも、マリトともヒト座敷ともいう地方がある。
マリトは、まれびと即ち客人の古語であって、そんな古い頃からもう客人の座が決まっていた。
また、この座をムコ座とも、アニ座とも男入れともいうことがある。
アニというのも、この場合は家の長男のことではなく、やはり、新ムコが初見参に日に、舅にもてなされてその側近くにすわり、また花嫁と晴れて顔を見合わせる席でもあったので、こういう名が生まれたものと思われる。
嫁入り前の若い女性たちは、ちょうどこの男入れの対岸、やや斜めの座に座っていました。もちろんその上席には、主人の横座に近く、主婦の座はちゃんと決まっていた。
世を譲った女親は隠居に住み、または別に小さな炉を切ってそこに住むが、その場に居合わせると主婦の次に坐った。
たいていこの座は、家のすべての女性たちの座る席となっていたらしいが、上座の者が代表してここをかか座・うば座・または女房入れなどとも呼んだ。
土地土地で色々な名がつけられている。
男座に対して女座・オナゴザまたはメロジャ。南座に対して西座。福井では、主婦の座をたき座、富山ではスウダキワというのも、火たき座のなまりであろう。
広島の北部では、オモヒジリという、これも主な日に火をたく所ということだろう。
かか座でする事に決まっていたのは、お茶をこしらえることで、それで、岡山地方では茶せん座、山口県から九州一帯では、茶煮座、または茶飲座というものが多い。
最も大切なことは、ここで食物を取り分けて出す事で、したがってその名を付けたものが多い。丹波・但馬ではオナゴ座をなべ座、美濃の山中ではなべじろと言っている。
2)下座と木じり
残りの席、横座の向かい側は、板敷きであり、畳もござも敷かれていない。大きな家なら、下男下女、出入りの者などがここに座った。
それで、すえ座ともシモイリともゲスイともいう。九州の南ではデカン座とも言っている。デカン座は代官であるが、ここでは農僕のことをこのようによんだ。
普通の家では、そこは使わずにあけておいて、アケトモとも、取り残しともいう人がいた。そして、お産をし女房をここで休ませる風習もあり、ここを子持ちジロとも言っている。
神棚と仏壇とは、多くの家では主人の座っている横座のすぐ後ろにあり、この間を女には決して通らせぬ家もあった。若い女房が下座に座っていると、自然に幼な子もそこによってくる。それで、アコジャ、コイドと呼ぶ所もある。
下座は、木を焚くと煙りが自然と流れてくる。それで、ここをトグチ、たきものじり、ホダじりとも呼ぶ地方がある。
炉端の座席の中で、近頃まで一番厳重に守られていたのは、主人主婦の座で、以前はこの席を譲るべき相手というのは、菩提樹の和尚ぐらいなもので、隠居の親が来ても大抵は並んで座った。
主婦の座も同じように、大切なものとされた。杓子を渡すといって、家と世帯を引き継いでしまった姑なども、たまたま同じ火にあたる時には、やはり主婦の次に坐ろうとした。
それでも無理にでも上座の方へ、勧めて座らせるようにことが、今でも優しい女の心がけになっている。いまでは、私たちの礼儀が、主として生きている人と人だけの間だけに、限られる様に考えられるようになって来たからである。
以前には家の中の決まりがあきらかになっていて、皆がおのおのその所に安んじている有様を、先祖の神霊が炉の上の高い所から喜んで見ておられると思うものが多かったので、道理をわきまえた老人などは、決して主人主婦より上には坐ろうとはしなかった。
だから、正月の節に日とか、あらたまった祝い事などの日には、人情を抑えてでもこの座敷の作法をきちんと守った。
(加藤登紀子の唄が気になる方は、音声を消してお楽しみ下さい)
参考文献
1)『柳田國男 全集 14』 筑摩書房
2)日本民俗建築学会編 「(図説)民俗建築大辞典 』 柏書房
3)日本民俗建築学会編 『日本の生活環境文化大辞典』 柏書房
4)宮崎玲子著 『オールカラー 世界台所博物館』 柏書房
5)大館勝治・宮本八恵子著『「今に伝える」農家のモノ・人の生活館』柏書房
6)柏木博・小林忠雄・鈴木一義編『日本人の暮らし 20世紀生活博物館』講談社
(2018年8月29日)
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