火の作法(火きり杵、火打ち道具、火打ち箱、つけ木)
1)火きり杵
外の灯りの根源は、たいまつであった。人が簡単に火を作る事の出来なかった時代には、家というものが有力な火の中心であった。
どんなうす暗い小さな家でも、それから分かれて出なければ、やみ夜を照らす光というものはなかった。
だから、たとえば旅人が旅の途中で日が暮れてきてもーー我が家の火から遠く離れ、しかもマッチもなく、火打石もなく、まして火縄というような重宝なものも知らぬ世に住んでいたので、たとえそこらの草木をタイマツにする事が出来ても、これに火をつける手ずるというものを、まるで持たなかった。
天然の火の保存ということは、今の人の思うほど有り得ないことでは無かった。火山の噴火はめったにないとしても、落雷は土地によっては随分と多く、高い樹木が多ければそれが焼けて、長い間燃えている。
今まで生で食べていた植物がその火に焼かれて、美味しくなるという経験もできないことではない。土地によっては、大嵐の日に、植物がこすれ合って、火を出すことがしばしばあった。
そういうなかで、竹類がもっとも山火事になり易かったようだが、彼らはその火を持ってきただけでなく、竹を摩擦して火を出す事も、学んだであろうと思われる。
発火法の最も原始的な方法には、三通りある。
火鋸、ポンプ型、火錐型である。
どれもが、何百回となく同じ運動をくりかえしているうちに、道具が熱くなってしだいにそばの物に燃えつくというやり方である。
とくに火錐型は、日本では古来よりよく用いられた。
普通はよく乾いた比較的柔らかな木の厚板の上に、ヒノキなどの先のとがった棒を当てて、強くもむ。この棒にひもをまきつけて、別の人に双方から引かせる方法もあった。
が、我国の場合は、一人で手のひらを合わせてもんだ。
出雲大社その他の尊い多くのお社の祭りで、新しい色々な発火法が考え出されている今日まで、なお必ずこの手続きで作り出された火でなければ、神の供物を調理し、またお燈明にともす事もできぬものとして、今も毎年この古い方式を繰り返しているのは、深い意味のある事のように、私たちには感じられるのである。
つまり、正しく穢れなく、少しでも「心に弱みのない人」だけが、こうして神さまの清い火をモミ出し得るという、古来の信仰はまだ残っているので、それを確かめたあとでないと、安心して祭りにお仕え申す事は出来ぬように思っている人が多いのであろう。
だから、単なる古風なしぐさの記憶または保存と見ることは、誤りというべきであろう。
また、新しい火の清く美しいことは、一般にも認められていた。古い火、は物に触れてけがれやすく、どんなに気を付けて保管していても、いつの間にか神さまにはあげられない火に成ってしまう事を、日本人は非常に恐れていた。
この点が外国とまるで違っていて、私たちは手許に火がちゃと燃え続けているのに、わざわざそれを消して「火をあらためる」ということを度々した。
だが、木の杵・うすで火を切り出す最初の発火法を覚えていない土地が少しづつ増えてきて、穢れを清めるのにひとかたならぬ苦労をしてきた。
遠くのお社まで火を分けて頂きに行き、たいまつにつけて帰って来るというような必要も、しばしば起きた事であろうと思われる。
(注;動画の火きりは、38分ごろより)
2)火打ち道具
操作のこれよりはるかに簡単な火打ち石の利用法が、いったん民間に知れて来ると、えらい勢いでそれが普及し、また次々と改良の加わったのも当然なことであった。
火打石がどんなにあっても、その利用の一般に行き渡ったのは、どうしても鉄の火打ち金の、手に入りやすくなってからの後でなければならない。
大和武尊の使われたのも、『古事記』には火打ちとあり、『日本書記』には樋打ち(ひうち)とあるが、これだけが鉄の火打ち金であったから、早く効果があった物と思われる。
もとはそういうものが得にくかったので、何でもあり合わせの金属の片端を、角のある石で打っていたのかも知れない。そうして、鍛冶屋が村々にはいってくるようになり、鍋でも、鍬・鎌でも自由に作れる頃には、その火打ち金もほぼ形が決まってきたと思われる。
普通は手ごろな木片に、僅かの鉄のカスガイのように打ち込み、それを右手に持って石の角を打つと、すぐに膝の前に火花が落ちた。
また、火打ちがまなどといって、鉄を三日月の形に鍛え上げ、それを装飾用に大きく作ったのも残っている。旅をする人には袋に入れて腰に下げられるように、位小さく手際よくこしらえたものがあった。
3)火打ち箱
女性が火の管理を全部を掌るようになってからでも、新しく火を作る火打ち石・火打ち金だけは、決まった場所に置いて主人が監督している家があった。それか、別に神さま用の燈打ち箱がって、そればかりは女には手を付けさせないようにしていた。
そうして、何か火をあらためる必要が起こった時には、これによって新たに火を切りだした。
その名残は今も形だけは残り、普通の火で調理した神さまへの御供え物でも、その上でカチカチと火を打ち、火花が飛べば、それで清い火を用いたのと同じになり、兵士や学生が家を出て行くときにも、その者の頭の上で火打ちで火を切って、それで穢れが無くなったものとして安心して発足させた。
また、火打ち石は、毎日使うものでもあり、石金そのものに、穢れが付くかもしれないという心配を、古い人々は持っていたようだ。
勿論、十分な用心をしていたが、それでも意外な事で穢れが入っていることが解った時には、もとは村中の火打ち金を取り集めて、鍛冶屋に渡して打ち直させることにしていたようだ。
打ちなおすといっても、ただ金床にのせて、槌で数回たたく程度であっただろうが、それでも器を新しくすれば、火の根源は改まるものと信じていた事だけは、大昔からの習わしのままであった。
つまり、火は霊界から発する者という考え方が、マッチやライターの時代のすぐ前までは続いていたのである。
4)ほくち、
火打ち石の利用を試みた人々が、まず考えずにいられなかったのは、どうすればこの火を捕まえて、段々と育てて行って、燃える火にすることができるかといことであった。このように想像できる。
錐もみ方式では、板の表面を摩擦したから、その部分は粉になり、周りに溜まっていたから、それが熱をもってブスブスといぶりだしたが、火打ち石は電光石火で、たちまち消えてしまう。
それで、ホクチ(火口)というものを考え出した。これは、火きり方の時に、細かい粉が出来るのを知っていたからであろうと思われる。そして、それと同じものを探し回っていたからであろう。
ホクチの材料は、枯れ木の朽ちてぼろぼろになったもの。桐の木などの消し炭を、粉にしたもの。東北などでは、サルノコシカケを乾燥させて砕いたもの、などを使う事もあった。
京都付近の古いお社では、奉書という紙を良くもんでこれをホクチにしていた例もある。これは現在でもなお続けている。だが、これは、普通の家庭では到底まねのできない事である。
だから、火打石・火打ち金が民間に行き渡ると間もなく、ホクチは商品になった。
商品にするには、大量の材料が必要であり、もっともよく製造されたのは、カマという草の穂で、これをよく乾燥させたものを売った。その多くは、火付きのよいように木炭の粉を混ぜて、体裁のために墨の液に浸して黒くしたものであった。
家々のには、必ず火打ち箱という木の箱が二つ以上はあった。箱はその中を二つに仕切って、角石と火打ち金、ほくちとに分けてあった。
4)硫黄つけ木
ホクチはそのままにしていたのでは、燃える火にはならないでの、枯れ松葉、芝草、藁のハカマなど、燃えやすい物をの上にのせて、せっせと吹いているとしまいには炎が上がり、それからは幾らでも大きな火にすることができた。
つけ木の頭に硫黄の溶液を塗ったというだけに思いつきは、その重要さにおいて、火打ちの発明に劣らない。
一方が男子の時間を節約したと同じように、これは火を管理する女性たちの辛苦を救った、といえる。
もとより、火打石が無ければ]此の考えも起こらず、またホクチがあればこそ、硫黄のつけ木のありがたみも現れたと言える、のであるが。
ホクチが先発の前進隊だとすれば、こちらは(つけ木)後続の本隊のようなもので、これがあってはじめて、石の効果は完全になった。
ところが、これをだれが考え出したのかが、解らない。とても遺憾なことだ。
シナ(中国)から来たと言えばたいての人は納得するだろうが、このことは確実な事とは言えない。シナにも硫黄はあるが、非常に遠くから運ばれるものである。
これに反して、日本では硫黄の山が至る所にあり、その産出量も多く採取が容易である。
硫黄のつけ木の発明は、私達の先祖の働きであり、少しでも他民族の助けを借りてはない。
初めてこのつけ木を使う事の出来た人達の感謝は、想像に余りある。俯いて火を吹くという苦労が全くなくなって、むしろあの薬品の変な煙を吸わないように、息を止めている必要さえ生じた。
火吹き竹なども利口な発明であると言えだろうが、この道具は全く不要になった。豆ほどのホクチでも火がついてさえいれば、それへ硫黄をあてるとすぐに青い火がもえて、少し待っている間にだんだんと明るくなり、吹くことはかえって消すことになった。
ホクチは古来の日本の商品のなかでは、最も安いもので、灯心やもぐさなどに比べてもなおはるかに安く、一文銭で買えた。
それでなお、銭を出して買う品であるため、我々の先祖たちはこれを粗末にすることを嫌った。損得の問題というよりも、むしろこれが新しい金銭経済に対する態度であり、銭を使うのが少なくて済むということは、一種の勝利のように感じていた。
硫黄のつけ木も、一把何厘というほどの安いものであったが、なおしばらくに間は、これを使うまいとした人があった。
どうしても使わずにいられなくなってからも、一枚のつけ木を二つに折り、四つに折り、細いものにして火をつけるのが普通で、めったに一枚を一回に使う人はなく、そう言う事をする嫁や娘は、たちまち村中の問題になるほどであった。
関西では、これをイオンといっていたが、イオンは硫黄の訛である。三重県などでは、マッチのことをカラヨという人もあった。これも「唐の硫黄」の意味である。
鳥取県では、タテヨまたはタッチョウとも言っていた。
日本人の社交はもとは品物の交換を中心としていた。葬式其の他の特別の場合を除いて、物を贈られるとぜひともその入れ物の中へ、何かおつりを入れて返さなければ成らぬことは、今でも守られている作法である。
このおつりは、最初は物で良かったが、だんだんとお金を出して買い求めたものを入れて、こちらでも心づかいをしているということを示さねばならなくなって来た。
そういう時には、このイオンを入れて返す事がごく普通であり、「おつけ木のかわり」とか「イオンも入れずに」という言葉をよく耳にしたことである。
(注:「火の作法」という言葉は、投稿者が勝手に考えたもので、柳田がこのような言葉を使っている訳ではありません。)
(2018年8月29日)
1)火きり杵
外の灯りの根源は、たいまつであった。人が簡単に火を作る事の出来なかった時代には、家というものが有力な火の中心であった。
どんなうす暗い小さな家でも、それから分かれて出なければ、やみ夜を照らす光というものはなかった。
だから、たとえば旅人が旅の途中で日が暮れてきてもーー我が家の火から遠く離れ、しかもマッチもなく、火打石もなく、まして火縄というような重宝なものも知らぬ世に住んでいたので、たとえそこらの草木をタイマツにする事が出来ても、これに火をつける手ずるというものを、まるで持たなかった。
天然の火の保存ということは、今の人の思うほど有り得ないことでは無かった。火山の噴火はめったにないとしても、落雷は土地によっては随分と多く、高い樹木が多ければそれが焼けて、長い間燃えている。
今まで生で食べていた植物がその火に焼かれて、美味しくなるという経験もできないことではない。土地によっては、大嵐の日に、植物がこすれ合って、火を出すことがしばしばあった。
そういうなかで、竹類がもっとも山火事になり易かったようだが、彼らはその火を持ってきただけでなく、竹を摩擦して火を出す事も、学んだであろうと思われる。
発火法の最も原始的な方法には、三通りある。
火鋸、ポンプ型、火錐型である。
どれもが、何百回となく同じ運動をくりかえしているうちに、道具が熱くなってしだいにそばの物に燃えつくというやり方である。
とくに火錐型は、日本では古来よりよく用いられた。
普通はよく乾いた比較的柔らかな木の厚板の上に、ヒノキなどの先のとがった棒を当てて、強くもむ。この棒にひもをまきつけて、別の人に双方から引かせる方法もあった。
が、我国の場合は、一人で手のひらを合わせてもんだ。
出雲大社その他の尊い多くのお社の祭りで、新しい色々な発火法が考え出されている今日まで、なお必ずこの手続きで作り出された火でなければ、神の供物を調理し、またお燈明にともす事もできぬものとして、今も毎年この古い方式を繰り返しているのは、深い意味のある事のように、私たちには感じられるのである。
つまり、正しく穢れなく、少しでも「心に弱みのない人」だけが、こうして神さまの清い火をモミ出し得るという、古来の信仰はまだ残っているので、それを確かめたあとでないと、安心して祭りにお仕え申す事は出来ぬように思っている人が多いのであろう。
だから、単なる古風なしぐさの記憶または保存と見ることは、誤りというべきであろう。
また、新しい火の清く美しいことは、一般にも認められていた。古い火、は物に触れてけがれやすく、どんなに気を付けて保管していても、いつの間にか神さまにはあげられない火に成ってしまう事を、日本人は非常に恐れていた。
この点が外国とまるで違っていて、私たちは手許に火がちゃと燃え続けているのに、わざわざそれを消して「火をあらためる」ということを度々した。
だが、木の杵・うすで火を切り出す最初の発火法を覚えていない土地が少しづつ増えてきて、穢れを清めるのにひとかたならぬ苦労をしてきた。
遠くのお社まで火を分けて頂きに行き、たいまつにつけて帰って来るというような必要も、しばしば起きた事であろうと思われる。
2)火打ち道具
操作のこれよりはるかに簡単な火打ち石の利用法が、いったん民間に知れて来ると、えらい勢いでそれが普及し、また次々と改良の加わったのも当然なことであった。
火打石がどんなにあっても、その利用の一般に行き渡ったのは、どうしても鉄の火打ち金の、手に入りやすくなってからの後でなければならない。
大和武尊の使われたのも、『古事記』には火打ちとあり、『日本書記』には樋打ち(ひうち)とあるが、これだけが鉄の火打ち金であったから、早く効果があった物と思われる。
もとはそういうものが得にくかったので、何でもあり合わせの金属の片端を、角のある石で打っていたのかも知れない。そうして、鍛冶屋が村々にはいってくるようになり、鍋でも、鍬・鎌でも自由に作れる頃には、その火打ち金もほぼ形が決まってきたと思われる。
普通は手ごろな木片に、僅かの鉄のカスガイのように打ち込み、それを右手に持って石の角を打つと、すぐに膝の前に火花が落ちた。
また、火打ちがまなどといって、鉄を三日月の形に鍛え上げ、それを装飾用に大きく作ったのも残っている。旅をする人には袋に入れて腰に下げられるように、位小さく手際よくこしらえたものがあった。
3)火打ち箱
女性が火の管理を全部を掌るようになってからでも、新しく火を作る火打ち石・火打ち金だけは、決まった場所に置いて主人が監督している家があった。それか、別に神さま用の燈打ち箱がって、そればかりは女には手を付けさせないようにしていた。
そうして、何か火をあらためる必要が起こった時には、これによって新たに火を切りだした。
その名残は今も形だけは残り、普通の火で調理した神さまへの御供え物でも、その上でカチカチと火を打ち、火花が飛べば、それで清い火を用いたのと同じになり、兵士や学生が家を出て行くときにも、その者の頭の上で火打ちで火を切って、それで穢れが無くなったものとして安心して発足させた。
また、火打ち石は、毎日使うものでもあり、石金そのものに、穢れが付くかもしれないという心配を、古い人々は持っていたようだ。
勿論、十分な用心をしていたが、それでも意外な事で穢れが入っていることが解った時には、もとは村中の火打ち金を取り集めて、鍛冶屋に渡して打ち直させることにしていたようだ。
打ちなおすといっても、ただ金床にのせて、槌で数回たたく程度であっただろうが、それでも器を新しくすれば、火の根源は改まるものと信じていた事だけは、大昔からの習わしのままであった。
つまり、火は霊界から発する者という考え方が、マッチやライターの時代のすぐ前までは続いていたのである。
4)ほくち、
火打ち石の利用を試みた人々が、まず考えずにいられなかったのは、どうすればこの火を捕まえて、段々と育てて行って、燃える火にすることができるかといことであった。このように想像できる。
錐もみ方式では、板の表面を摩擦したから、その部分は粉になり、周りに溜まっていたから、それが熱をもってブスブスといぶりだしたが、火打ち石は電光石火で、たちまち消えてしまう。
それで、ホクチ(火口)というものを考え出した。これは、火きり方の時に、細かい粉が出来るのを知っていたからであろうと思われる。そして、それと同じものを探し回っていたからであろう。
ホクチの材料は、枯れ木の朽ちてぼろぼろになったもの。桐の木などの消し炭を、粉にしたもの。東北などでは、サルノコシカケを乾燥させて砕いたもの、などを使う事もあった。
京都付近の古いお社では、奉書という紙を良くもんでこれをホクチにしていた例もある。これは現在でもなお続けている。だが、これは、普通の家庭では到底まねのできない事である。
だから、火打石・火打ち金が民間に行き渡ると間もなく、ホクチは商品になった。
商品にするには、大量の材料が必要であり、もっともよく製造されたのは、カマという草の穂で、これをよく乾燥させたものを売った。その多くは、火付きのよいように木炭の粉を混ぜて、体裁のために墨の液に浸して黒くしたものであった。
家々のには、必ず火打ち箱という木の箱が二つ以上はあった。箱はその中を二つに仕切って、角石と火打ち金、ほくちとに分けてあった。
4)硫黄つけ木
ホクチはそのままにしていたのでは、燃える火にはならないでの、枯れ松葉、芝草、藁のハカマなど、燃えやすい物をの上にのせて、せっせと吹いているとしまいには炎が上がり、それからは幾らでも大きな火にすることができた。
つけ木の頭に硫黄の溶液を塗ったというだけに思いつきは、その重要さにおいて、火打ちの発明に劣らない。
一方が男子の時間を節約したと同じように、これは火を管理する女性たちの辛苦を救った、といえる。
もとより、火打石が無ければ]此の考えも起こらず、またホクチがあればこそ、硫黄のつけ木のありがたみも現れたと言える、のであるが。
ホクチが先発の前進隊だとすれば、こちらは(つけ木)後続の本隊のようなもので、これがあってはじめて、石の効果は完全になった。
ところが、これをだれが考え出したのかが、解らない。とても遺憾なことだ。
シナ(中国)から来たと言えばたいての人は納得するだろうが、このことは確実な事とは言えない。シナにも硫黄はあるが、非常に遠くから運ばれるものである。
これに反して、日本では硫黄の山が至る所にあり、その産出量も多く採取が容易である。
硫黄のつけ木の発明は、私達の先祖の働きであり、少しでも他民族の助けを借りてはない。
初めてこのつけ木を使う事の出来た人達の感謝は、想像に余りある。俯いて火を吹くという苦労が全くなくなって、むしろあの薬品の変な煙を吸わないように、息を止めている必要さえ生じた。
火吹き竹なども利口な発明であると言えだろうが、この道具は全く不要になった。豆ほどのホクチでも火がついてさえいれば、それへ硫黄をあてるとすぐに青い火がもえて、少し待っている間にだんだんと明るくなり、吹くことはかえって消すことになった。
ホクチは古来の日本の商品のなかでは、最も安いもので、灯心やもぐさなどに比べてもなおはるかに安く、一文銭で買えた。
それでなお、銭を出して買う品であるため、我々の先祖たちはこれを粗末にすることを嫌った。損得の問題というよりも、むしろこれが新しい金銭経済に対する態度であり、銭を使うのが少なくて済むということは、一種の勝利のように感じていた。
硫黄のつけ木も、一把何厘というほどの安いものであったが、なおしばらくに間は、これを使うまいとした人があった。
どうしても使わずにいられなくなってからも、一枚のつけ木を二つに折り、四つに折り、細いものにして火をつけるのが普通で、めったに一枚を一回に使う人はなく、そう言う事をする嫁や娘は、たちまち村中の問題になるほどであった。
関西では、これをイオンといっていたが、イオンは硫黄の訛である。三重県などでは、マッチのことをカラヨという人もあった。これも「唐の硫黄」の意味である。
鳥取県では、タテヨまたはタッチョウとも言っていた。
日本人の社交はもとは品物の交換を中心としていた。葬式其の他の特別の場合を除いて、物を贈られるとぜひともその入れ物の中へ、何かおつりを入れて返さなければ成らぬことは、今でも守られている作法である。
このおつりは、最初は物で良かったが、だんだんとお金を出して買い求めたものを入れて、こちらでも心づかいをしているということを示さねばならなくなって来た。
そういう時には、このイオンを入れて返す事がごく普通であり、「おつけ木のかわり」とか「イオンも入れずに」という言葉をよく耳にしたことである。
(注:「火の作法」という言葉は、投稿者が勝手に考えたもので、柳田がこのような言葉を使っている訳ではありません。)
(2018年8月29日)
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