2018年8月26日日曜日

柳田國男『火の昔』Ⅱ屋内の燈火(ヒデバチ、八間、行灯、ランプ)

火の昔 屋内の燈火(ヒデバチ、八間、行灯、ランプ、)

1)ヒデバチ

農家の燈火には、四度の変遷があった。電燈の前には、石油ランプがあり、その前には菜種油のあんどんがあり、もうひとつ前には、燈明の道具があった。それをヒデバチといった。

これはすり鉢の形に石を掘りくぼめた器に、簡単な足をつけて、その真ん中で松のヒデというものを燃やす道具で、最も古風なものである。

ヒデというのは、年を経た松の木のやにの多い部分を切って細かく裂いたもので、これをこの鉢の中で燃やした。

石でこの器をこしらえるのは、特別の家(分限者)であった。普通には、穴の開いた古鍋とか、大皿のかけらとか、すり鉢の壊れたのとか、火の用心の良いものを廃物利用した。

土地によると燈台なべという言葉もあるので、鍋の不要になったものを使う場合が一般的であったと思われる。

関西ではこの松のことをコエ松、東北ではアブラ松、浜松ではベタ松。これは、やにがあってべたべたするからであろう。

岐阜でロウ松というのは、ロウの代わりという意味であろう。京都府ではジンドというが、ジンは芯のことらしく、松のジンまたは松のツノと言う所もある。

珍しいのは、鹿児島で広い地域でこれをツガマツと呼んでいる。ツガも灯(あかし)にするという意味があり、またツガの木といって檜に似た木があるが、それはこの燈火のツガを取る木なので、そう呼んだのであろう。

2)松燈蓋

ヒデバチとか、穴の開いた古鍋を燈台にするなどは、むしろ後々の新しい考案かもしれない。

もとは2尺か3尺のたいまつをこしらえて誰かに持たせておくということであっただろう。

例えば岩手県の二戸・九戸などの山村では、普通大きな囲炉裏の内庭に近い一すみにちょうど行灯くらいの高さの松の木の、枝の四方に立てたものを打ち込んで、古鍋は乗せずにその上で火を焚いている。

松の枝が何本も出ているので、それも適当に切ると、「枝の皿」のようになる。それに平たい石を乗せて、その上で油松を焚いている。

これをマツトンギャ、すなわち松燈蓋と呼んでいる。これは中世の絵巻物などのでてくる宮中の結び燈蓋とおなじであって、かっては都の上に立つ方(運上人)でも、油ではなく燈蓋で松のあかしを、焚いていたものであろう。

こういう生活は、おそらく何千年も続いたのである。遠い大昔は全国一様に、松を燈火とし、またこれを本式としていたのである。

3)八間

家の中で油をあかりに使うようになったのは、主として都会地がもとである。都会は開けるにつれて人の出入りが多く、家族が増えるばかりか、夜まで人の出入りする家、たとえば東京名物のお湯やとか蕎麦屋とか宿屋とかが、まず新しい燈火を必要とするようになった。

家族だけでなく、お客と名のつくよその人が夜も来るようなところには、表にも座敷にも、それぞれの灯りが入り用になってきた。

一般の家庭に同じ油の燈火がともされるようになったのは、それよりまた後のことである。もとはなたねの油をともす行灯というものさえなかった。

町でも、ただ大きな家の広敷や上がりはなの天井に、八間(はちけん)という、形も八角の大きな燈籠が下がっていた。

おそらくは、八間(約15m)くらいの遠さまで照らす。そういう意味で、こういう名前を付けたと思われる。

ろうそくは値段の高いもので、とても毎晩ともしてはおけない。それで、かわりにギョウトウといって、魚をしめてとった油を使った。

魚燈はとても臭いもので、ろうそくも臭かったが、それよりもさらに不愉快な、油が手につけば、なまぐさい香がとれなくて困るほどのものであった。

だが、日本は昔から、いっぺんに魚のたくさんとれる島で、いつも食糧には余るので、こうして油をしぼって売るのが一つの事業になっていた。現在では精製していろいろの工業製品にしている。

魚燈の火はちっとも明るくなく、おまけに外から入ってくるとすぐに鼻につき、着物にも匂いがつくほどのくさい油で、漁村はお手ものだからいつまでも使っていたが、都会ではほかによい油がないから使ったので、何か代わりになる油の出るのを、いわば待ちかねていた。

魚燈が菜種の油に代わったということは、一つの大きな生活改良である。

油を燈火に使うのは、かなり古い時代からのことで、中世の絵巻物などを見ると、宮殿でも、神さま・仏さまの前でも、また美しい女性が、短ケイといったり結び燈台といったりするものを前に置いて、坐っているところなどが描いてある。

油の火をともしていたことは確かであるが、その油はたいへん貴重なもので、とうてい普通の家の経済では、使うことができなかった。

何故かと言うと、その頃の油は、原料が主として胡麻だったからある。胡麻は産量が少ないうえに、これから油を絞るのも、簡単ではなかった。

胡麻の油の次には、荏(え)の油というのが、かなり古くから、日本に入っていた。
また、カヤの実の油、椿の油を使う所もあった。

だが、これらもまた値段が高いので、全国一般の燈油にはすることができなかった。

やがて、多分シナから、アブラナが入って来た。そして、これが瞬く間の内に、家々の燈火を変化させ、また日本の農業にも変化を与えた。

アブラナは雲台と書いているが、これが入って来たとたんに油の値段はだんだんと安くなり、その便利さも理解され、いつの間にか全国に普及していった。

その原因は、栽培が容易で、産量がごまなどよりはずっと多く、またどこへでも運送し易かったからだと思われる。

もとは日本はどちらかというと、畑作のあまり進まぬ国であった。それがちょうど菜種の花を咲かせるようになった頃から、麦類も畑に盛んにまくようになった

その一方で、田んぼの緑肥用として、レンゲ草の紅の色とで、みごとに春の平野をいろどることになった。

つまり、家々の夜を明るくしようとした私たちの願いが、偶然ながらも、一国の風景までを明るくしたのである。

世の中の進みというものは、まことにうれしいものである。

4)油と行灯

胡麻はその文字でもわかるように、もとは外国からはいってきた植物で、というのは日本の名があるので、この国に始めからあったと思われる。

この荏の実をしぼり、燈火に使うようになったのが、胡麻より前のことか、または胡麻にならったものかは、確かなことは解らない。しかし土地土地について言うと、胡麻はまったく油としては使わずに、他の植物ばかりを燈火に燃やしていたところは多い。

椿の実もその一つだが、こちらはまだ髪にもつけたり、食用にもしていた。カヤの実もこれと同じように、多くは食べる方に使っていた。

これに対して、家の中のあかり専門に油をしぼっていたものが、他にもあった。それはカヤの木の種類で、普通にはイヌガヤともいうが、ヒョウビと言う名でよく知られていた。

少しにおいが悪く、食用にも何にもならぬ油で、おそらくはただ燈火のためだけに、実を取り油をしぼったものと思われる。

九州ではヘボノ木とかヘボガヤと言うのが古く、中部地方ではヒョウビといい、東北に行くとショウビ・ソウブというように、ハ行がサ行に変わっている。

京都の近くでは、へーべまたヒビ、越後ではヒョウミ、東京付近の山村ではヘッタマ・ヘダマともいい、どれが本来の正しい言葉から分からない様になってしまった。

が、とにかく全国に名前が広く行き渡っていたのだから、かっては一般の必要品であったことだけは、想像することができる。

京都近くの古い有名なお宮でも、神さまのお燈明は、必ずこれからとった油の火を上げるという所がある。吉野の奥の村などでは、近頃まで家の火にこれを使っていた。

この油の特徴は、ヒドイ寒中の寒さでも凍らないことで、つまり冬の神祭のある所では、この油しか使えなかった。石器や縄文土器を使った大昔の遺跡から、器にはいって、このヒョウビの実が出てきたことがある。そのように言う人もある。

そうすると、これは食用にならないものであるから、もうそんなころからこの植物の油をしぼって、あかりにしていたのか、ということが考えられる。それが山奥の村では、いまなお利用されていたというのは、驚くべきことである。

アブラナの油があれば、もうこんなものはなくてもいいのだが、これでもかまわぬという人がまだあるのである。

ことに神社などでは、今も昔のままにヘべの油をともしているのは、単に倹約からだけではなくて、古いならわしを改めまいとしているのである。

5)行灯(丸行燈、角行燈)

行灯には、丸行燈、角行燈、そのほかに少しづつ形の違ったものがあった。



 *丸行灯

これらの中では、丸行灯がしゃれたもので、小堀遠州の発明であると言われる。別名を遠州行灯ともいう。

風流な考案がなされてあり、台の縁につけた丸いみぞによって、半円づつ開け閉めができるようになっている。

丸い筒の半分が重なっていて、くるりと回すとしまり、風のない晩にはその半分を開けたままにしておくと、光の輪が広いので、物を見るのには便利なところから、関西の方では普通の家庭のありふれた家具となっていた。

*角行灯

角あんどんのほうは、四角の一方の戸を開けて火をつけたり油をさしたりする。残りの三方は紙にさえぎられてうす暗く、おまけに中へ手を入れて燈心をかきたえるのが、やや不便であった。

丸あんどんは油皿が半分外へ出るので、皿を傾けたり油をこぼしたりする心配がなく、たいへんよく出来た発明であった。

家々の行灯の高さは、大人が上の取っ手を持って引きずらずに歩けるだけに出来ていた。それでも、特別な決まりがあったわけではない。

行灯の台には引き出しがついていて、その中に燈心を入れていた。注意が行き届いた家では、そのほかに付け木とか火打ちとか、あかりをともす一通りの道具をしまっていた。

 *行灯の仕組み(燈心と燈明皿)

油を入れ燈心をともす皿を、スズキといっていた。行灯の下から三分のニくらいの高さに、十文字に木が打ってあって、そのむすびの所を少しくぼめて、上に油皿がのっているのが、一般的であった。

もともと、持って歩くものだから、取っ手がついていた。土佐の阪本竜馬の最後にも、行灯を持って出た所を切られた。これは、人の良く知る所である。

提灯ほどは遠くに下げては行かないが、その辺をすこし探し物でもする為に歩くという時に、今日の懐中電灯の役目をしていたのが、行灯である。

つまりは、行灯は提灯の一種で、もとは提げて歩きまわる近距離用の燈であったので、行灯と名づけられた。後には危ないからといって、持ち歩く習慣がすたれ、しまいには家の中の、決まった場所に置いて使うようになった。

それにともなって、形も大きく、下が重く、台に引き出しなどが出来、一つの家具のようになった。

家の外に持って出るには、高くて地面を引きずるようでは困るし、中ほどの木に油皿をのせておけば、油もこぼれやすいから、以前には行灯の底をくぼめて、その上に燈明皿を置いたと思われれる。

台には引き出しもなく、足がごく短い、丈の低い、底に板の置いてあるものが、現在でも絵などに残っている。

行灯の燈心は、とても珍しい形をしている。これは、という草から取ったもので、それでこの草を燈心草とも呼んでいた。

これに油を吸わせるとよく燃えるので、その火を油皿の端の所で押さえておくと、そこでとまって明るい炎になる。

軽くふわふわとして長い細いもので、それでやせ男などというおかしな名前もつけられていた。

これは、ミョウバンを熱い湯に溶いた中に、一度ひたしてから乾かすと、やせを防ぐことができた。値段もやすく、商品としてはこんなに安い物はほかにないくらいであった。

それでも、昔の人たちはそれさえ倹約して、お客のある時以外は、本数を減らして使った。燈心が大切なというよりも、多くしておくと油の減りが大きいからである。

それさえ気にしなければ、相応に明るいものであったが、普通には灯心を倹約するので、行灯は、うす暗いものといわれていた。

行灯は、寝る時には無論消すが、赤ん坊がいたり、まだ帰ってこぬ人があれば、なるべく細い一本の灯りにして、つけておいた。

こういうことがあるので、丸行灯は便利であった。

灯心が油皿に浮いていると、油が良く沁みまずまた火が動きやすいので、その上に燈心押さえというものをのせて、大抵はこれを燈心掻きと兼用にしました。

燈火を掻き立てるには、その燈心押さえをつまんで燈心を前に出し、暗くするのにはそれで後ろに下げる。この燈心押さえには、白い瀬戸物の観音像をかたどったものもあった。普通は下の方が輪になった棒のようなもので、これも珍しい形をしていた。

親たちに行灯をもっと明るくせよ、また暗くせよと言いつけられて、灯心を動かすのが女や子供の役目であったことは、多分松の火の頃からの引き続きと思われるが、それは決して不愉快な役目ではなかったことは、私(柳田)も経験している。

 *灯蓋、燈明皿

灯蓋、燈明皿というものは、昔は一枚のものであったらしく、古い絵巻物に見えているのは、多くは木を三本組み合わせた上に、皿が一つだけ乗っている。ところが近年のものは、どこでも上下二枚の皿を重ねている。

足利時代の本には、油皿を2枚重ねて下の皿に水を入れて置くと明るいと書いてある。すでにこの頃か燈明皿を2枚にするという風習が始まっていたと思われる。

実際には上の皿には燈心を入れた場合、灯心の吸い上げる力で油が上に集まり、それが皿の裏へ回って下に滴るのを防ぐためそうしたもののようで、下の皿に溜まった油を、上の皿に戻しているのをよく見かけた。

それでも、まだ油は物を伝って流れやすいので、行灯の底には別に行灯皿といって、上から落ちる者を受ける大型の皿があり、これが家々の欠くべからざる道具の一つであった。

その皿は普通は瀬戸物で、これに簡単な絵模様が描いてあった。

菜種油をともした行灯がすたれて、石油のランプになってからも、子供等は特別に面倒がらずに、そのランプの掃除をしたが、これには古い頃からの歴史があったのである。

この掃除をするのは、一三、四才の娘の役目のようになっていた。行灯の掃除をして手が汚れると、最後には反古紙で拭くが、その前に手についた油を髪の毛に塗るのが、倹約な時代の女の子の常のしぐさであった。

6)ランプと石油

菜種ははじめ家でしぼっていたが、それを専門にする人が出来、最後には大きな工場で精巧な器械を使って絞るようになった。

そういうところへ、突然に石油が現れた。
石油の一番の影響は、依然の菜種油の燈火道具を何一つ利用できなくしたことである。

つまりは、これまでに有った全てのものを取り換えてしまわなければならなかったので、家に二重の燈火道具を置くまいとすれば、灯りを根こそぎ改良するより他に手だてが無かった。

これにまごつた人々は、はじめ、カンテラとか、豆ランプ、などを考案し、使っていた。

ランプのホヤというものは、日本のガラス吹き工場の一つの特徴をなしていて、他国のまねではなしに、こちらにきてからの自己流の行き方が、かなり働いていたと思われる。

ガラス工芸の最も進んだ厚ガラスや切子などは、まだ外国の通りの立派なも名が出来なかった際にも、いちばん初めに手を付けたのは、数の沢山入用なランプのホヤであった。

和製のホヤは壊れやすいといっていたが、初期の頃のガラス工場は、ほとんどこればかりを吹いていた。

最初がガラス製であったホヤは、やがては竹製のものが使われ始めた。上下の太さを同じにしたもので、形が小さい割には火が大きく、扱いが便利であったので、このホヤがこのまれるようになった。


それと同時に火芯も変わり、非常に明るくなったのも、ひとつの特徴であった。



(暗くなるのは、30:00辺りから。)

(参考文献)

1)『柳田國男 全集 14』 筑摩書房
2)日本民俗建築学会編 「(図説)民俗建築大辞典 』 柏書房 
3)日本民俗建築学会編 『日本の生活環境文化大辞典』 柏書房
4)宮崎玲子著 『オールカラー 世界台所博物館』 柏書房
5)大館勝治・宮本八恵子著『「今に伝える」農家のモノ・人の生活館』柏書房
6)柏木博・小林忠雄・鈴木一義編『日本人の暮らし 20世紀生活博物館』講談社

(2018年8月26日)

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