2013年6月30日日曜日

原発再稼働は到底容認できない(2)

原発事故後の社会状況から考えてみる。

ゴルフ場の訴訟において、東電は放射性物質について、無主物であるから責任はないと主張した。
自分の家から出たものではあるが、責任はとらないという。


このような弁護の論理を出してきたのが、日本でも有数である弁護事務所である。
しかし弁護人の利益を守るためなら、公序良俗に反する論理も気にしないというのであれば、
悪徳弁護士といわれても反論は出来まい。

自分の家から出た煙が他人の家に迷惑をかけた。
車を運転していて水をはねて、他人の服を汚した。
建設中のビルから物を落として通行人に怪我をさせた。

このような場合に責任を取らないというようなことが、考えられであろうか。
また許されるであろうか。そんなことはない。

このような事を厚顔にも主張するなどということは、法廷侮辱罪にあたるのではないのか。
(確かなことは不明ではあるが)

それを、裁判所は認めた。
理由はいろいろと推察できる。

社会的な影響がおおきい。
国策なので原子力については、社会常識が適用できない。
そんな判決を出せば、自分の出世に関わる。
東電にそんなことは出来ないのだから、国がやるべきである。等々。

しかし、社会的な影響を大きさを言うのなら、このような反社会的な判決を出す方がよほど、
その影響がおおきい。
これでは世の中の人に、法律を守らないでいいですよ、というのと同じことである。
モラルの崩壊につながることは明らかである。

また、国策だからと言う理由で東電の主張を認めるのは、裁判所は独立していません、と言っているのと同じである。
もともと、日本の裁判所に独立性があるかどうかは、あいまいのままであった。

判事自身の事情も同じである。
日本の裁判官は、憲法を守らなくてもよい、と公に認めたことになる。

東電に除染の能力がないということと、責任の有無とは別である。
そうであるのならわざわざ、電離放射線障害防止規則を制定することはない。

今の日本は無法状態にある。
憲法は死んでいる。 
法律も死んでいる。
社会は混乱をきわめている。
今後ますますひどくなることが予想される。


事故後、「絆」という言葉が言われている。

福島県の人に代表される状況を、日本人全体が受けるべきだという論理である。
外の県の人もひとしく放射能を浴び、汚染された食材を食べるべきだと言われる。

汚染された瓦礫を全国にばら撒き、国中を汚染させようとしている。
食品の案是基準を下げて、汚染された野菜や果物、魚などを国民に食べさせている。

私の住んでいる所でも,ガレキが焼却されたことで、空間の放射線量が上がっている。
福島の事故と同じように、このガレキ焼却は、受け入れた自治体だけの問題ではない。
周辺の自治体にも、影響がある。

だから、単に地域住民に説明をしたからそれで済むようなことではない。

また、住民の安全を十分に考えていますと、説明されている。
いろいろ理屈をつけているようだが、どこまで責任をとれるのか。

給食に福島の食材を使う府県に対して、補助金を出すことさえして、子供に汚染されたものを食べさせようとしている。

報道機関は、風評被害だとさわぐ。しかし、正確な情報を流そうとしないから、風評が起きるのだ。
基準値以下だから安全であるという情報のもとで、多くの汚染食材が流通したであろう。
特に外食産業にその多くが流れたと考えられる。

事故前の食の安全を守れ、という掛け声はどこに行ってしまったのか。

食材の産地偽装、偽装表示、食品添加物の規制などで、業者に大量の食品を回収させ、廃棄させたことは、さらりと忘れ去られたかのようである。

今回の事故によって、政府や政治家、学者や研究者、報道機関、裁判者や司法関係者など、
日本の中枢にいる、多くの人たちは、思考停止に陥ってしまっている。

また、戦前の大本営発表ゃ一億玉砕のことを持ち出すつもりはないが、方向が誤っている。

このような状況の中での原発再稼働は、集団自殺と同じである。