2019年7月6日土曜日

D・ヒュームにおける「哲学の起源」とは

≪それゆえ、私は、娯楽にも人と一緒にいることにも飽きて、自分の部屋で、あるいは川端をひとり歩きながら、夢想に耽っていると、私は、私の精神が集中力を回復して来るのを
感じ、私が読者や会話においてそれについての多くの論争に出会ったような問題に私の考えを向けるように自然に傾くのである。

私は、道徳的な善と悪の原理や、政府の本性と基礎や、私を動かし支配する種々の情念と傾向の原因を、知りたいという好奇心を、もたざるをえない。

私は、私がいかなる諸原理に基づいてそうするのかを知らず、或る対象を是認し、別の対象を否認し、或るものを美しいと呼び、別のものを醜いと呼び、真と偽、理性と愚かさについて決定する、ということを考えて、不安になる。・・・

私は、人類の啓発に寄与し、自らの創意と発見によって名を揚げたいという野心が、私のうちに生じるのを、感じる。

これらの気持ちは、私の現在の気分のうちにおいて、自然に沸き起るものであり、もしも私が、何か他の仕事や気晴らしに自分を縛りつけることによって、これらの気持ちを追い払うように努めるならば、私は、私が快楽という点で損をするものである、と感じる。

これが、私の哲学の起源なのである。


しかし、たとえこの好奇心と野心が、私を日常生活の範囲の外にある思弁に私を連れていかないにしても、わたしの弱さそのものから、私がこのような探求に導かれざるを得ないということが、必ず起こるであろう。

迷信が、その体系と仮説において、哲学よりもはるかに大胆である事が確かであり、哲学が、可視的世界に現れる現象に対して、新しい原因や原理を帰することで満足するのに対して、迷信は、それ自らの世界を開き、まったく新しい、情景や、存在者や、対象を、われわれに提示するのである。

それゆえ、人間の精神が、野獣の精神のように日常の会話や行為の主題である狭い対象領域に留まることが、ほとんど不可能であるので、われわれがなすべきことは、ただ、われわれの道案内として何を選択すべきかについて思案し、もっとも安全でもっとも好ましい道案内を選ぶということである。

そして、この点で、私は、あえて、哲学を推奨し、哲学を、あらゆる種類、あらゆる名称の迷信に優先させることにやぶさかではない。

なぜなら、迷信は、人類にはやりの意見から、自然に、容易に生じるので、精神をより強く捉え、しばしば、生活や行為の遂行においてわれわれを惑わし得るからである。

これに対して、哲学は、もし正しい場合には、われわれに、ただ穏かで節度ある意見のみを提示することができ、もし偽であり常軌を逸している場合には、それの意見は、ただ冷静で一般的な思弁の対象でのみあり、われわれの自然な傾向の歩みを中断するようなことは、めったにないからである。

・・・・一般的にいうならば、宗教の誤りは危険であるが、哲学の誤りは、単に滑稽であるだけである。≫(306頁~307頁)



本書(『人間本姓論 第一巻 知性について』 木曾好能訳 法政大学出版局 1995年)は、1739年~40年に出版された。全3巻からなり、第二巻は「情念について」、第3巻は「道徳について」となっている。第1巻と第二巻とは1739年に、第三巻は1940年に、初版が出された。

I・カント(1724~1804年)がその歴史的著作である、『純粋理性批判』を世に問うたのが、1781年である。

D・ヒューム(1711~76年)のこの本は、それに先立つこと、約40年であった。

(2019年7月6日)


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