2019年7月14日日曜日

自己啓発としての温故知新 「西洋哲学」を学ぶ

最近はどうなのか知らないが、一時よく自己啓発、というのが流行った。「自己啓発セミナー」というものも、記憶に新しい。


で、こういうものは、たいていが「企業が新入社員に受けさせる」ことが、多い。あるいは、個人的に何かの資格を取得することが、目的だったりする。

また、「ファッション、としての自己啓発」というものも、ありそうだ。どういったことを「ファッション」と呼ぶかによって、違いがあろうが。

茶道や華道、を「ファッション、としての自己啓発」と決めつけると、その道の専門家から、苦情が出るだろうか。

自己啓発、あるいは、自己開発の本来的な姿は、どうあるべきか。それを考えるヒントになるのが、以下に引用した、鎌田 勝氏の「啓発本」に書かれて文章である。

以下は、引用。

≪「歴史はくりかえす」と言われるように、古いものが新しくなり、新しいものがすぐに古くなるというパターンが繰り返されているように思える。

生まれた時からテレビやマイカーのある家に育った子供には、ラジオや自転車が新しく思えるし、物が豊かになるほど、心の豊かさ、温かい思いやりを求めるようになる。

・・・

希少価値のなくなってきた学歴を追って心身をすりへらすよりも、自分が本当に学びたいことを、資格や就職や世間体といった雑念にわずらわされることなく、心ゆくまで勉強したほうが、ずっとすてきなことである。時代の変化に敏感な現代の若い人たちは早くもそうした方向に進みつつある。

・・・

もちろん、古いものがすべて新しくなり、古いものがみんなすぐれているということはありえない。古いものの中にある良さ、現代にも通用する新しさを発見することが大切である。

これは楽しい自己啓発の1つである。」(『能力開発100の方法』鎌田 勝 62頁~63頁)



自己啓発、というと、何か「為になる」(実益を伴う)事でないと意味がない、とわれわれは、考えがちだがーー鎌田氏は、そうではなくて、「為にならないこと」(一見無益の思えること)をすることこそが、本来的な意味での自己啓発、なのだというのである。

もちろん、何が「為になる事であり、為にならないこと」なのか、という判断は、人それぞれであろうが。

どちらにせよ、すぐ眼の前の実利、功利ばかりを追い求めるのではなく、本当に自分を精神的に高めること、を求めて勉強(=学ぶ)するのが理想的な姿である、ということができるだろう。

しかし、これは自己との戦い、であるから、とても厳しい側面を持つ。安易に妥協すれば、「お稽古事」に終わってしまう。「勉強したつもり」で終わってしまう可能性を含む。

私の場合は、「西洋哲学」を自己啓発、として勉強している。哲学、こそは、実利、実益、とはもっとも無縁な学問である、と想うので(もちろん、これが唯一の理由ではないが)。

今は、カント、ヘーゲル、ディルタイ、ハイデッガー、に取り組んでいる。昨年の12月初めから初めて、7か月あまり。あと、2年間をかけて、学んでいく計画である。

もちろん、基礎的な教養に欠ける(おまけに、かっらっきしドイツ語ができないので、翻訳本で行う)私にとって、これが「背負いきれないほどの荷物」であることは、よくよく、承知の上である。

2回や3回読んだだけでは、3分の1も理解することができない。でも、最初は、何事においても、困難がつきもの。大きな石がゴロゴロと転がる道を我慢して登りつづけてこそ、はじめて頂上に辿りつくことができる。

(2019年7月14日) 2019年7月15日 更新

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