2016年3月24日木曜日

『妻である私にも責任の一端があると感じております』

このたびは、夫、乙武洋匡の行動が
週刊誌で報じられた件につきまして、
多くのみなさまにご迷惑をおかけしたことを
お詫び致します。』


自民党が参院選の候補者に擁立する予定の、
乙武洋匡氏のホームページへの書き込みが、
話題になっている。

乙武氏本人の謝罪文は「当然」として、
「妻である私」までもが、謝罪したことには、
大きな違和感がある。

謝罪文が、妻の本当の気持ちを表したもの、
であるかどうかは別にして--
こういう書き込みを世間が受け入れるなら、
日本は江戸時代とあまり変わっていない。

これを「良妻賢母」の手本である、
と日本の社会が称賛するようなら、
今も封建時代と同じである。

それにしても、
多くのみなさまにご迷惑」というのは、
誰に対し、どんな迷惑をかけたのか。

よく使われる言葉なのだが、
どういうことなのか、
聞いて見たいものである。

2016年3月22日火曜日

強い意思で生きよ「言うことは簡単だが、実行する事は難しい」

ましてや、それを継続することは、
なお難しい。

人はよくないことだと解っていても、
つい、楽な道を選択する。

川の水が、高い所から、低い所に
流れるように。


ブログの投稿であれ、ほんのささいな事であれ、
良い習慣を手にいれ、それを継続し、
保っていくことは、困難を伴う。

逆に、あまり良いと思えない習慣は、
身に着きやすい。


自分で自らを励まし、良い習慣を
身につけるように、努力する以外にないと思うが、
これまた、難しい。

夏目漱石ではないが、「この世」は住みにくい。
そう思って、自分をなぐさめる。

ところで、反省と後悔は違う。

反省は進歩につながるが、
後悔は自分をダメにする。

二度と同じ過ちをしない、と反省することはよいが、
後悔が先にたち、何も行動できない。

そういうことになると、
自分で自らを縛ることになる。

例外もあると思うが、
心すべきことであろう。


2016年3月9日水曜日

人生で一番耐えられないことは、 義務も責任もないことである

『人には誰でも、それぞれに義務がある。

したがって、その義務を実行するための
能力をみがく必要がある。


家計のやりくりにせよ、
ビジネスや学問研究にせよ、
また一国の政治にせよ、
それはみな同じなのだ。』

このことは、一線を退いた人々にも、
あてはまる。

人生にとって一番耐えられないことは、
何もなすべき義務も責任もないことである。

義務と責任から解放されると、
人はとたんに気力をなくす。

だから、義務と責任こそが、
人が人間らしく生きていくためには、
欠かすことが出来ない。

たとえ定年になってビジネスから身を引いた男性であれ、
家事から解放された年老いた女性であれ、
何ほどかの義務と責任を分担すべきである。

その事が生きがいとなり、痴呆症などの
予防になる。

『何もしなくてもよい』という言葉ほど、
残酷な言葉はない。

無為な日々を重ねる人生は、
人を無気力に、身体だけでなく
心までむしばんでしまう。

継続は力「努力でカメも、ウサギを追い抜くことが出来る」

努力でカメもウサギを追い抜くことが出来る。

『コツコツ努力する劣等生は、
必ずや飽きっぽい優等生を
追い抜くだろう。

遅くとも着実に歩むものが、
競争では最後に勝つ。


歩みのノロいカメでも、
正しい道さえ通れば、
間違ったみちを行く
競争相手に勝つことが出来る。

だから、熱心に努力さえしていれば、
進歩が遅くとも気に病む必要はない。』

童謡の「うさぎとかめ」の歌詞に歌うとおり、
自分の能力を過信して怠けるウサギは、
ゆったりと歩むカメにさえ負ける。

取るに足りない才能の持ち主であっても、
努力に努力を重ねることで、
天才たちを打ち負かすことが出来る。

たとえ、打ち負かすことができなくとも、
以前と違って格段の能力を手に出来る。


反対に、『何でも手際よく覚える子どもは、
それだけもの忘れも早いし、
忍耐や努力という資質を磨き上げようともしない。』

気がつけば、自分よりも能力の劣ったものに
打ち負かされ、
ほぞをかむことになる。

2016年3月8日火曜日

人間らしく生きよ「どんな環境の中でも、真の人間はその中で成長する」

人が人間らしく生きることが出来るには、
よい環境が必要とは限らない。

『いかに貧しく取るに足りない人間であろうと、
その人が日々の生活で無言のうちに示す模範的な行動は
かけがえのない価値を持つ。


仮に外面上は不幸な境遇--
たとえば、へき地のボロ屋や大都会の狭い路地裏に
暮らしていようと、
真の人間はその中で成長していく。』

たとえば、蓮の花は、
ドロ池の中できれいな花を咲かせる。

人間の偉大さは、過酷な環境にあっても、
それに打ち負かされずに、
立派な人格を手に入れ、
正しい行いをなし、
人の手本となるような人物に育つところにある。

立派な人格を手に入れ人間らしく生きるためには、
よい環境はかえってジャマでさえある。

春のうららかな日差しが、眠りをさそうように。

立派に歩んだ人生と正直一途な人格は、
子孫と社会への大切な遺産である。

このような人生や人間性は、
美徳の何たるかを無言の内に教える。

自助の心で生きよ「自己教育こそが、最良の教育である」

『最良の教育は、人が自分自身に与える教育である。
学校での教育は、ほんの手始めにすぎず、
勉強の習慣を作り上げるという意味でのみ
価値がある。』

学校教育がすべてでもないし、終わりでもない。
学校での教育が終わるところから、
本来の教育が始まる。


たいていの人々は、学校での教育を終えると、
勉強を終えたと勘違いし、
学ぶことを止めてしまう。

だが、本当はここから
本物の勉強が始まる。

今度は、学校の教師に代わって、
自分で教師の役目を果たす。

自分が教師となって、
自分自身に教育を施す。

知識を増やし深め、高い教養を身につける。
人格を磨き上げ、高い道徳心を養う。

世俗的な成功者となるためではなく、
自己の完成に向かって、
絶え間ない努力を重ねる。

このような自己教育を、生が尽きる時まで、
自分自身に与える。

知的にも、道徳的にも、
秀でた人物になりたいと思うのなら、
このことが欠かせない。

かのS・I・ニュートンでさえ、死の直前まで
学び続けた。

雪深い丹後の里にも、雪国の春は来る

柳田国男の『雪国の春』に、次のようにある。

『北国でなくとも、
京都などはもう北の限りで、
わずか数里を離れたいわゆる比叡の山蔭になると、
すでに雪高き谷間の庵である。

それから嶺を越え湖を少し隔てた土地には、
冬籠りをせねばならぬ村里が多かった。


丹波雪国積らぬさきに つれておでやれうす雪に

という盆踊りの歌もあった。

これを聞いても
山の冬の静けさ寂しさが考えられる。

日本海の水域に属する低地は、
一円に雪のために交通がむつかしくなる。』

丹波、丹後は、本州の北海道である。
こういう土地で生まれ、育った人々にとって
春は、特別な季節である。

蕗のとうや、土筆(つくし)が、
雪のあいだから芽を出すと、
雪国にも春が訪れが感じられるようになる。

田畑の根雪が溶けて、黒い土が顔を出すと、
心が浮き立つ。

冬ごもりから覚めて、
山に分け入り、田畑で鍬(すき)をふるう。

それはまた、実りの秋にむけて、
土や草とのたたかいが始まるときでもある。

2016年3月7日月曜日

倹約の心で生きよ「貯蓄は、自尊心や自立心を養う砦である」

お金を倹約して使うというのは、
すぐれた人格者の基礎となる資質である。

「いつでもお金が役に立つ訳ではないが、
衣食や生活上の満足はもとより、自尊心や自立心など
人間に有意義なものを与えてくれるのは、お金の力である。


貯蓄によって、我々は生活の足場を固めることが出来る。
暮らし向きが好転するまで、希望を失わずに、
快活に生きて行ける。」

だから、貯蓄は困窮に対する砦である。


貯蓄によって、自分の足場を固めようと努力することは、
それだけで、十分に尊敬に値する。

その努力を通じて、人は向上し強くなる。

困窮スレスレの生活にあえいでいるものは、
自分の行動さえ自分で決めることができず、
他人に束縛され、人の言いなりにならざるを得ない。

そのような人にならない為には、
節約の習慣を身につけることが必要である。


そして、人が節約するには、
ずば抜けた勇気もすぐれた美徳もいらない。

特別な能力は必要ではなく、
人並みの精神力があれば、十分である。

ただ、節約と吝嗇はちがう。
節約してお金を増やせば、心のゆとりができて、
他人に施すことが出来る。

無くした人生の時間は、お金を山と積んでも買い戻せない

「時は金なり」というのは、
よく言われる格言である。

だが、「時は金以上である」
というのが、正しい表現と言える。

お金は無くしても 、
また働いて取り戻すことが出来る。


しかし、人生における時間は、
一度無くすと、二度と取り戻すことが出来ない。


人はお金を使い果たして初めて、
お金のありがたみを知る。

ところが、時間のありがたみを知るほどに
時間を使い果たしてしまう状況になったときには、
その人の人生は終わる頃になっている。

そのときになって、山ほどのお金を積んだとしても、
無くした時間を買い戻すことは、
出来ない。

だから、時間とお金は、同等ではない。
時間は、お金以上に価値がある。

人生における時間の価値は、
到底、お金で換算することは出来ない。

人は、無くして初めて
「親とお金のありがたみを知る」
という。

人生における時間の価値こそ、
無くす前に、知るべきである。

求めて生きよ「人は真剣に望めば、なりたいものになれる」

人は、望めばどんなものにでもなることができる。
家柄、身分、財産の有無などには、
関係がない。

『われわれの意志の力が神の力と結びつくなら、
その効果はきわめて大きい。


心から真剣に求めつづけていれば、
すべては可能となる。』

ある聖者は、このように語る。

だが、そのためには、
謙譲や忍耐、節度や寛大さなどを
身につけることが、必要となる。

ところが、人間の意志は、時として、
とんでもない方向へ
突き進んでしまうことが多い。

舵が壊れた船のように。
手綱を解かれた馬のように。

だから、意志に正しい目標を与え、
適切な方向に舵をきることが、
重要になる。

「意志あるところに、道は開ける」
といえども、ただ努力するだけでは、
目標は達成出来ないのである。

また、その目標は、善と結びついていることが
大切となる。

善と結びつかない目標を追い求めることは、
意味がない。

「ヒットラー」のようになることが
無駄であるように。


2016年3月6日日曜日

悪い行いをするな「天知る、地知る、われ知る」

『かれが身体によって、
  ことばによって、
またはこころの中で、
  たとえわずかなりとも
   悪い行為をなすならば、
かれはそれを隠すことができない。』


「天知る、地知る、われ知る」
と言われるゆえんである。

たとえ人が見ていないからといって、
悪業をなしてはならない。

その人がいない所で、
陰口を言っては、ならない。

理由もなく、他人を傷つけるような
言葉を、言ってはならない。

他人が知ることが出来ないからといって、
よこしまな心を抱いては、ならない。

因果はめぐり、やがては、
自分に戻ってくる。

風下に居て、塵をまけば、
そのちりが自分にかかるように。

2016年3月5日土曜日

運命に打ち勝って、正しくあれ

人の世に、運、不運はつきもの。
誰でも、それから逃れることは、
出来ない。

しからば、如何にして、それを耐えしのぶか。


このことについて、賢人は、次のように説く。

『君に起ったことが
君の正しくあるのを妨げるだろうか。

またひろやかな心を持ち、
自制心を持ち、
賢く、
考え深く、
率直であり、
謙虚であり、
自由であること、
その他同様のことを妨げるか。

これらの徳が備わると人間の本性は
自己の分を全うすることができる』

要は、自分の心のもち方次第である、
と言うことであろう。

たとえ、その身に何が起きようとも、
清らかで、善い心で、
それに打ち勝て。

じたばたせずに、心を静かに保って、
怒りを静めよ。

怒りに、怒りを持って対抗しても、
何の解決にもならない。

かえって、問題を複雑にする。
その怒りが、我々の心をむしばむ。

運命に打ち勝つための行動をさまたげる。

だから、正しく善い心で、
対処せよ。

かの偉大なソクラテスが、
泰然として毒杯をあおいだように。

天は自らを助けるものを助ける

S・スマイルズの『自助論』に、言う。
「天は自らを助けるものを助ける」と。

これは、古今東西 不変の真理である。


「馬を川まで連れて行く」ことは、出来る。
だが、馬に水を飲ませることまでは、出来ない。

水を飲むのは、あくまでも、
馬自身の意志と行動による。


同様に、人が自分を助けることが出来るのも、
自身の意志と行動による。

他人は、ただその人を川に連れて行くことが、
出来るだけである。

人が馬を川まで連れて行く、ように。


意志あるところ、道は開ける。
道なくば、自分で道を切り開く。

このような精神をもつことが、重要だ。

もっとも、これは簡単なことではない。
言うは易く、行い難い。

その行い難いことに、挑戦する。
そこに、人生の妙味がある。

それもまた、
真実である。

依存心と独立心、このふたつは矛盾しない

「依存心と独立心、
つまり、他人をあてにすること
と、自分に頼ることー

この二つは一見矛盾したもののように思える。
だが、両者は手を携えて進んでいかねばならない」
と、イギリスの詩人、ワーズワースは言う。


このことは、人という文字からも
よく解ることである。

人という文字は、二本の棒で 
支えあっている。

どちらか一方が、倒れると、
両者が倒れる。


また、「情けは、他人のためならず」とも、
言う。

「巡りめぐって、自分に帰って来る」
ということではなくて、
他人を助けることが、
自分を助けることに、つながる。

人が社会的存在である以上、
何らかの形で、他人に育てられる。

何んらかの形で、教えを受ける。

それらのことの「恩返し」が、
他人に「情けをかける」ことで、
可能となる。


また、親友というものは、
人にとっては、「宝物」である。

特に、「心友」ともなれば、
一生の宝物、と言える。

助けられ、助ける。
支え、支えられる。

けっして、不名誉なことではない。

このような友を、一人でも得たなら
それだけで、その人の人生は、
大成功と言える。

独立心は重要だが、時として
「独善的人間」を生み易い。

そういう時期に、頼りになるのも、
親友=心友 である。


2016年3月4日金曜日

よく生きよ「自覚のない人生は、動物にも劣る」

人生を「よく生きること」は、
難しい。

「よりよく、生きること」は、さらに難しい。

そして、このことを自覚して
生きることは、もっと難しい。


自覚のない人生は、
動物の「一生」にも、劣る。

それは、ただ「息をしている」だけの人生
にも等しい。

ただ息をするだけなら、
犬や猫でもする。

それどころか、犬や猫でも、
自覚して生きる。

それなりの「役目」を
果たすべく努力する。

だから、「ただ息をしている」
だけの人生は、動物にも劣る人生である。


一回きりの、二度とない人生を
充実させて生きることは、
人としての義務でもある。

だが、このことは、簡単では、ない。
人間なら、誰にでも出来ることでも、ない。

数学や外国語を学ぶこと以上に
人生を学ぶことは、難しい。

充実した人生を送るための
知識と技術を手に入れる。

そのためには、普段の努力がいる。
この自覚が、大切である。

そうでないと、人生から
見捨てられる。