2013年11月5日火曜日

焼け太る東電、無策の安倍政権、踏んだり蹴ったりの国民、今の日本に正義はあるか

あるとき道を歩いていたら、「恥を知れ」という文字が目に入った。よく見ると、新しく舗装し直された歩道にあるマンホールの蓋が、かなり、歩道面よりレベルがずれていた。


おそらく、役所の検査官が書いたのであろう。

この検査官氏、この度の東電の黒字決算の記事を読んで、何と思ったことであろうか。
やはり、「恥を知れ」と書くであろうか。会って、聞いてみたい。

厚顔にも、東電社長の広瀬氏は、原発の再稼働がなければ、収支は、また、赤字化するから、再稼働を認めよ、と言う。

ずうずうしいにもほどがある。よくこんなことが言えたものだ。

この所、東電に関する記事を見てもコメントする気になれなかった。
「オオカミ少年」の例えのように、もう何を聞いても、反応しなくなっていた。

この「情報を小出しにして、またかと思わせ、関心をなくさせる」と言うのが、東電の戦略ではと思いつつも、かなり無関心になっていた。

だが、今度ばかりは、無関心ではおれない。

大手マスコミは、この点に関して、沈黙を守っているので、尚更である。
どこも、社説として取り上げようとはしない。

完全に、安倍政権に押さえつけられてしまった様だ。
非力な私ごときが、大した影響もないのにブログで取り上げたところで、「蚤が蹴ったぐらい」の事でしかなかろうが、言わずにはおれない。

安倍政権は、

* 東京電力福島第1原発周辺の除染に関する政府の見直し案が1日、判明した。除染費用1兆円超を国が投入する。除染に伴う廃棄物を保管する中間貯蔵施設の建設と、生活再建へのインフラ整備に付随して追加的に・・・   
一方、国や自治体がこれまでに計画の除染費用は最大3兆円程度になる見込みで、この部分は従来通り東電の全額負担。政府は東電の除染負担額が固まった段階で、交付国債の発行枠を現在の5兆円から8兆~9兆円に拡大し、東電の資金繰りを支える方針。*(東京新聞)

だと言う。

この費用は、どこから来るか。国民のフトコロだ。
考えてみて頂きたい。

安倍政権は、消費税の値上げを決めた。
国民は、増税で取られ、電気代の値上げで取られ、さらに、東電がばら撒いた核物質の後始末のための除染費用を、負担させられるのだ。

三重の負担である。
それに反して、東電は、黒字決算である。
焼け太りもいい所だ。

銀座のクラブでは、最近、東電の社員が戻ってきてるようである。(ホステスの話による)
大ぴらに、飲み歩くようになってきているようだ。

彼らが、接待費を使っているかどうかは知らない。
個人であれば、どこで飲もうと、勝手だ。

でも、こんなことが許されるようなら、━━鶴田浩二の歌のセリフではないが━━この世は闇だ。正義も道理も、あったものではない。

安倍政権は、山本議員の行動を、非難することはできはしまい。

何故、安倍政権はこの期に及んでも尚、東電を破綻処理せず、国民から「油を搾る」がごとくに収奪してまで、東電を守ろうとするのであろうか。

小室直樹博士が、ある本で、「日本国憲法は、すでに改正された」と述べられている。(注①)
確かに表向きは、「改正」手続きは取られてはいない。

だが、すでに主権は、国民の手から離れてしまっている。
現代の日本を動かしているのは、高級官僚である。

国会、裁判所、政府・検察は、官僚によって簒奪(さんだつ)されている。
だから、現在は官僚主権と表現するほうが、今の日本の現状を正しく捉えている。

いちいち例は挙げないが、この事は大方の国民が認めるところであろう。

特に、政治家の不甲斐なさは、はなはだしい。
小室氏は、「第二の角栄いでよ」と述べられているが、同感である。

今の政治家に、一人でも、議員立法をなしたものがあるか。

「いや、今はそのような事が出来ない」、というのは言い訳に過ぎない。議員立法が出来ないような仕組みになっているのなら、そのような仕組みを変えればいいだけのことである。

今更いうまでなく、国会は法律を作る所である。
その法律を作らずして、何の国会議員か。

また、国政調査権を使って、福島の東電事故の現状を調べ国民に公表した、という議員の話も聞かない。
「事故調」を作って、表向きをつくろっただけの事だ。

裁判所も、東電の味方をした。
ゴルフ場に関する裁判において、「無主物である」という東電の弁護士らの主張を認めたのである。

検察も、菅元首相らの裁判において、東電への強制捜査には入らなかった。
東電を呼んで、「話」を聞いただけだ。

小沢一郎氏との時との、あまりの取扱いの違いに、検察の本質を見た気がした。

政府は、もちろん、高級官僚の牙城だ。
日本においては、首相がいくらコロコロと変わろうと「政治の空白」は生じない、といわれる。

なぜなら、「官僚がしっかりしているからだ」というのが、少し前までの、日本の政府に対する「評価」であった。

だが、バブル崩壊以後、官僚に関する評価が一変した。
国民の誰もが、いまでは「官僚が優秀である」とは思っていない。事実も、そうだ。

彼らは、確かに有能であろう。それは認める。難しい」とされる試験をパスしてきているのだ。
だが所詮、試験秀才でしかない。

初めから答えのある問題を解いているだけの事である。要領がいいだけだ。

だから、彼らは、未知の問いに関する解答を出す訓練を受けてはいない。あくまでも、優等生的な答案を書くことで、「その他大勢」を引き離してきただけだ。

今少しづつ読み進めている、マックス・ヴェーバーの『「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によると、「最良の官僚は最悪の政治家である」というのが、その主張である。

あくまでも、官僚は、「決められたことを正確に実行に移すという限りにおいて、有能である」と言うだけの事である。またそれ以上であることも求めてはいられないし、必要がない。

行政の実行者として有能さが、求められるだけの事である。
大きな判断がいる訳ではない。

そのような官僚が、日本を簒奪している。恐ろしい事である。

戦前の日本の陸軍は、なによりも「陸軍あっての軍隊」、「陸軍あっての日本」というのが、彼らの意識の根底にあった。

現在の「霞ヶ関に巣食う」ところの高級官僚二もこれは共通する事だ。彼らにとっては、「官僚あっての政府」、「官僚あっての日本」というのが、根本的な思想である。

自分たちの事が、一番大事なのであって、国民の事は二の次だ。
日本の国がどうなろうと、自分らの事のほうが重要なのである。

日本は、現在、国民主権でなくなった。

この現状を打破することなしには、国民の幸福もなく、平和もなく、また、憲法が国民のためのものとして、機能する日が来ることもない。(2013/11/9 大幅に加筆しました)

(注①)
小室直樹   『田中角栄の遺言 官僚栄えて国滅ぶ 』    クレスト    1994年刊

(最近、アマゾンで手に入れた本です。近いうちに、読書案内の記事を書くつもりでいます)

( 2013-11-05 04:09:40)