2020年9月15日火曜日

書物の歴史  (Ⅰ)

 A 古代と中世

1 メソポタミア

・ 完全に理解された記録システムとしての碑文は、-400年ごろが始まりで、現在のイラク南部の都市の寺院に出現した。

この地方の会計官は、ほぼクレジットカード大の粘土板に、尖筆を用い、資産記録を記号や数字で刻んだ。

楔形で文字が刻まれた柔らかい粘土板は、天日干しされた。


・ やがて、メソポタミアの碑文は、法に基ずく契約や神々への碑文、さらに物語の創作に用いられた。

ー2000年頃には、秘伝の書写技術を教える書記の養成所も生まれた。

こうした粘土板は、19世紀中頃から20世紀初頭にかけて、2万5000枚も見つかった。


2  古代中国

・ 中国の最初の書物は,前6世紀に用いられた「簡讀」(かんどく)と呼ばれるもので、薄い竹片か、木片に、消えにくい墨で文字を書き、麻や絹、あるいは革の紐で結んだものであった。


竹の幹は、外皮をはぎ、20cmから70cmの長さに切る。そして、縦に数cm幅に割き、自然乾燥させたのち、一枚一枚竹札を作り、そこに一文字ずつ、縦方向に書いて保存した。


・ 一方、薄絹は、戦国時代(-551~ー479年)に、広く文字を書くために用いられた。


絹織物は、軽く耐久性に優れ、墨をよく吸収し、白地は文字を書くのに適してた。だが、絹は高価であり、しばしば雑文は竹に、重要な文書や挿絵入りの文書は、絹に書き記した。


・ 中国の伝承によれば、紙の発明は105年ごろ、漢の宮廷宦官だった蔡倫(さいりん:50年頃~120年頃)が考案した、とされる。

彼はぼろ布や麻、樹皮、魚網などを用いて、紙を作った。

この製紙技術は、610年頃まで国外に広まることなく、スペイン経由でヨーロッパに伝わったのは、12世紀になってからであった。

・ 中国人は、8世紀の中頃までには、木版印刷を発明している。

木版印刷は、印刷機のように強くプレスする必要もなく、手軽であったが、紙の片面だけしか使うことができなかった。

・ さらに、彼らは、1100年頃に取り外しのきく活字を作った。だが、漢字は多くの活字を必要とするため、木版の方が効率的であり、活字による印刷は発達することがなかった。


3 パピルス、羊皮紙、紙

・ エジプトは、パピルス紙の生産を独占し、ナイルデルタの沼地で成長する葦から、パピルスを作る秘伝を油断なく監視、秘蔵していた。


パピルス紙は、二枚重ねの膜からできていたため、片面のみしか使えなかった。これを必要な大きさに切り、必要があれば長い巻物にするために膠(にかわ)でつないだ。


・ 紀元1世紀以後、羊皮紙とパピルス紙との競合が始まるようになった。

羊皮紙は、動物の皮からできているため、耐久性があり、折りたたんだり、縫ったりするのにも耐えられた。こすってきれいにすれば、再利用もできた。

牛、山羊、ウサギ、リスの皮までもが、羊皮紙として使われた。

(註 ① 中世後期に至るまで、ヨーロッパではもっぱら羊皮紙が使われていた。丈夫蝎しなやかな羊皮紙は、遅くとも4世紀には,カミガヤツリの繊維から作られるパピルス紙にとって代わった。もともと、羊皮紙は代用品であったらしい。…紀元前2世紀、アレクサンドリアに古代最大の図書館を有していたエジプト王プトレマイオスが、ベルガモン王エウメネス2世がトルコのぺるが文の同様の図書館を作るのを邪魔しようとパピルスの輸入を禁じたところ,エウメネスは代用品を探して特殊加工された樹皮にたどり着き、これを「ぺルガモン(羊皮紙)」と名付けたいう。・・・

材料としてはロバ、鹿からラクダに至るまでさまざまな動物の皮が考えられたが、好まれたのは大量に飼育されていた山羊、羊、子牛だった。子牛の皮をべラム、羊の皮をペルガモンと区別することもあった。・・・・

子牛の皮から毛をとりさり水に漬ける。石灰を加えると肉の部分が全て溶け、皮の汚れた落ち、毛も抜ける。枠を作って皮を張り、水分が抜け切るまで太陽にさらす。次にナイフで表面を削り取り、皮を柔らかくしなやかにする。皮は本の形に整えられる。…さらに、軽石で余分なものを除き、書かれた作品が溶け出さないように白墨の粉を振る。・・仕上げには、さまざまな混ぜ物ーー灰、石灰、石膏、白墨、小石灰、亜麻油、卵白などーーも使われる。どのような混合物を使うかによって羊皮紙の品質に差がつき、工房の評判を左右したので、詳しいレシピは企業秘密だった。

羊皮紙工房は、基本的に修道院や町の外、できれば風下に建てられた。)


・ ローマ時代の後期から中世初期にかけて、公文書や豪華な手写本は、皇帝の権力や富を示す、高価な紫色の顔料を使って彩色ないし飾られた羊皮紙に、金銀のインクで書かれた。

・ 中国で発明された紙は、8世紀になると、アラブ人が中国の唐との接触で、製紙技術学び、12世紀、アラブ世界からイスラム化されたスペインを経由して、ヨーロッパへ持ち込まれた。

(註② 13世紀以降、新たな素材が重要性を増し、写本政策に大きな変革をもtらした。紙の登場である。紙は紀元前にすでに中国で発明されとり、朝鮮半島、日本、そして8世紀には中東に広まった。バクダート、イエメン、カイロの製紙工場は有名で、カイロには11世紀には紙商人がならず通りがあった。・・・・

13世紀半以降、イタリアに製紙工場ができ始めた。ドイツ語圏で初めての製紙工場は1390年で、・・・この頃からm紙の勢いは止まることを知らず、後の起こる印刷術という書物文化の大変革を準備することになる。)


4 古代ギリシャ

・ 古代ギリシャ語は、左から右に書いた。しかし、書き手が行末までくると、そのまま次の行に移って書き出すため、行は交互に左から右へ、右から左へと読むことになっていた。

こうした「犂耕体」(りこうたい)の書き方は、牛が引く犂の道を模倣したといわれ、6世紀まで行われていた。

ギリシャ人は、「連続方式」で文字を書いた。文には切れ目がなく、語と語のあいだに空間を作らず、新たな文節のための休止符もなかった。

文章はまったく句読点をつけず、行末の語は次の語とつながった。こうした文章でも、声に出して読むことによって、自然に切れ目ができ、意味が分かるのである。

つまり、ギリシャ人は、声に出して本を読むことを予想して文章を書いた。

・ 古代ギリシャ人は、ほとんど紙がなく、なめし皮やヘビ皮などをふくむすべての素材を、書写の材料として用いた。


5 巻き物からコデックス(写本)まで

・ 巻き物は、数百年にわたって支配的であった。だが、巻き物には多くの欠点があった。

本文に途切れがなく、頁の区切りもない。索引もないので、特定の文言を見つけることは、容易ではなかった。また、巻き物は両手で持たなければ読み進めることができない。


・ それに比べ、コデクッスは、コンパクトで扱いやすかった。コデクッスは、1世紀に現れた。

コデックスは、紙の両面が使え、より多くの文章を書きこむことができた。通常、片側で結び付けられ、飾り気のない木の板か、豪華に装飾された布を表紙とした。

・ 初期キリスト教徒たちは、初めて写本を採り入れた世代に属し、パピルス写本による最古の聖書は、2世紀まで遡る。

コデクッスは、4世紀以後、次第に普及していった。

(註 ③ 絵具、インク、羽ペン、周囲の形が一枚一枚異なる羊皮紙、といった材料がすべてそろって初めて、本を作る作業が始まる。固い表紙二枚で手写もしくは印刷されたページが挟まれる冊子体のものは、コデックスと呼ばれる。本は初めからこのような形だったわけでなく、紀元前1世紀までは羊皮紙もパピルスのように巻き物にされていた。最終的に巻き物からコデックスへ中心が移ったのは、5世紀だが、この変化は古代の終わり、中世の始まりを意味するものとされている。・・・

コデックスとは「樹幹」「角材」という意味で、本(ブック)という語は、「ブナの木(ドイツ語ではブッヘ)」に由来する。昔は木板に字を刻むことが普通だった・・・)

これ対し、ユダヤ人たちは、今なお、モーゼ五書(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)については、巻き本で読んでいる。


6 修道院書庫 

・ 最初期の修道院には、書庫ないし図書館に充てる特別な部屋はなかった。しかし、6世紀以降、書庫は西ヨーロッパの修道院生活にとって不可欠の施設となった。

・ ベネディクト会士の読書室では、貴重本を本棚にしまって、鍵をかけていた(鎖でつないだ)。貸し出しも同様にした。

聖ベネディクトの会則は、一日3時間の読書、四旬節期間中は、本一冊を読むと決めていた。

(註 ④ 中世後期に至るまで本や文書は、表紙の重さが羊皮紙の変形を押さえるように、書棚、チェスト、書見台に寝かせた形で保管されていた。今日的な図書館が成立したのは中世後期のことで、それまでは写本はたいてい、それが必要とされる場所、読まれる場所に置かれていた。聖書は教会に、典礼書は聖堂内陣に、娯楽書は私室や大広間にといった具合いである。しかし内容、材質共に貴重な写本は人々の欲心をかきたてたし、それは神に仕える修道士も例外ではなかった。・・・(盗難を防ぐ)より確実な方法は、表紙の上か下に鎖をつけて、書見台の下もしくは書棚の中の鉄の棒に輪で固定することだった。こうすれば本は、その場では読めるが持ち出しはできなくなる。中世も終わりに近づき、本の需要と製作が増加した結果、場所を節約するため本を書棚に立てて保管する新しい方式が生まれても、鎖でつなぐという盗難対策は引き継がれた。最も有名なのはヘレフォード大聖堂の鎖付き図書館で、1611年から1841年にかけて鎖で固定された約1000冊の本が、今もそのままに残っている。書棚から本を取り出し、開閉式の書見台において読めるように、巧妙なシステムが採用されている。本を開く際にひっくり返さなくてもよいように、また鎖が絡み合わないように、本は現在にように背表紙ではなく、前小口を手前にして立てられているのだ。鎖は開閉式書見台の上の鉄の棒に取り付けられており、書棚の外側に写本一つひとつのタイトルと置き場所が記されている。)


・ 写本作成は、修道院所属の修道士でも、訪問修道士でも、「写字室」で行われた。

学者たちは、ひとつの修道院から別の修道院へと研究したいと思う書物を探して遍歴した。欲しいと思う本が自分の手元に来ることはなかったからである。

(註 ⑤ 精力的に活動する修道院にとっては本は贅沢な調度品ではなく、教育義務を果たし、説教をし、聖書研究を行うために必要不可欠な道具だった。聖アウグスチノ修道会士で、霊的生活についての著作があり、自らも4度も聖書の写本を完成させたトマス・ア・ケンピスは言う、「本のない修道院は財なき国家,兵なき砦、器なき調理場、食事なき食卓、草生えぬ庭園、葉の落ちた木」。それゆえ本を保管する図書室と写字室は、常に修道院の中心だった。しかし写本製作における修道院の写字室の独占的地位は、12世紀以降揺らいでいった。公文書や法律文書が急増したため、皇帝や国王の宮廷書記局、さらには諸侯の宮廷や都市の尚書局にまで仕事が回ってきたのである。13世紀になると世俗文学の需要が高まって書記工房が商売として成り立つようになり,書記も十分な報酬がもらえるようになった。

修道院で製作されていたのは聖書、教父の著作、典礼本、詩篇などの宗教的な本がほとんどで、ごく少数の俗語を除いてラテン語で書かれていた。世俗文学は――そもそも存在園もが希少なのだがーー12世紀に至るまでページの余白埋めでしかなかった。

12世紀も半ばを過ぎると、修道院写字室は世俗的な内容の写本にも興味を示し始めたようだ。宗教的著作や聖人伝と並んで、・・・恋愛物語写本も製作された。・・・これはおそらく俗人からの注文によるもので、このような仕事が実入りの良い収入減になっていたのだろう。


聖なる書物の筆写は、それを読む者だけでなく、筆写した本人にも役に立った。というのも筆写いう行為は、昼夜を問わず修道院規則を尊守することを書記に求めるからである。書くためには高度な精神的集中、身体(とくに腕)の正しい姿勢、安定した手の動きが必要で,それにより身体と精神が鍛えられる。筆写をしていると聖書のテキスト、教父による注解、さらには教会暦の流れが頭に刻まれる。)


7 コーランとイスラム世界

・ コーランの写本の最も古い完全版は、9世紀のものである。

彼らは、コーランの写本を作り、羊皮紙を綴じるか、箱にバラのままいれた。


・ ムスリムの学者や図書館は、西欧の古典を収集・翻訳し、哲学、数学、そして科学の分野などの発達に寄与した。

・ 751年、タラス湖畔で、唐の軍に勝利したアッバース朝のムスリム軍は、取られた中国人の中にいた紙漉き職人から、紙の技術を得た。

・ 791年には、バクダットは、製紙工場を持った。

(註 彼らは知識を蓄えるために巨大な図書館を立てたが、単に書物を保管しただけでない。それを読み、議論し、試し、分析し、調査し、発見したのである。アッバース朝(750~1258年=最大で2000万の人口を有した)の人々は既存の知識を受け入れ、再生し、拡大して整理した。彼らはビザンチン帝国の人々を、ギリシャ人の知恵を無視していると批判さえして、自然哲学に関するギリシャの文章を翻訳するために提供するように繰り返し求めた.彼らにとって、翻訳は単に一つの言語から別の言語に訳す作業ではなかった。アラブの筆記者たちは、ギリシャのパピルスや羊皮紙に書かれた手稿本を紙へと書き写したのだ。

最盛期のアッバース朝は、哲学、天文に関する学問(星占い術、天文学、宇宙論)、言葉(詩、言語学、文法)、地球に関する学問(科学、植物学、地理学、地質学)、数学(幾何学、代数、十進法)などを発展させた黄金期でもあった。同時に、魔術や錬金術、神学など、より秘儀的、内省的な学問、料理、性愛文学のような快楽的なテーマも広く関心を集めた。

・バクダートは、幾何学的に計画された、権力と秩序と学びの象徴である。建設者であるアル=マンスール{712~775年}は、中心から放射状に延びる”円形都市”を設計した。彼はバクダートを地上で最も優れた都市、世界の英知と科学の一大都市にしたいと考え、その野心を達成した。アラブで最初の学術機関はここに建てられ、近隣諸都市から書物が集められ、この町は学者と科学者が遠方からも集まる中心地になった。)


・イスラムの紙は通常、亜麻と麻から作られていたために、丈夫で透明性がひくかった。布切れや紐の繊維を解きほぐし、石灰水に浸してから手でこねて柔らかいパルプの塊にして、漂白する。流し型でパルプの形を整えてから、なめらかな壁に塗り、水気を切ってはがれ落ちくるまで置いておく。次にでんぷんの混合物でこすって滑らかにし、重湯に浸して細かい穴をふさぎ、繊維をしっかりとつなぎ合わせる。

・813年から833年にかけて帝国を支配したカリフ・アル=マームーンは、夢でアリストテレスが目の前に現れたといい、ビザンチン、帝国の皇帝にアリストテレス、プラトン、画のレス、ヒボクラテス、アルキメデス、ユークリッド、プレオマイトスの作品を求める書簡を送った。これらの書物を受け取ると、カリフは最も熟練した翻訳者たちに翻訳を委託して、アラビア語版を作成した。)


・ やがて、バクダットは、蒙古軍に破壊されるが、カイロの図書館や、40万冊以上の蔵書を有していいたとされるコルバドの図書館は、その後も繁栄した。


・ 地中海世界において高い文明を誇ったギリシャ、そしてローマが滅びた後、その文明はアラブ世界によって守られたといえる。ヨーロッパ人にとって、イスラム世界はまささに「恩師」とも呼ぶべき存在なのである。

ところが、その大恩人に向かってキリスト教徒はどんな”恩返し”をしたのか。

それが十字軍であった。

(2020年9月15日)